「徴兵逃れの弊風」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「徴兵逃れの弊風」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

徴兵逃れの弊風

明治十六年布告の改正徴兵令は其精神に於て我輩の間然する所なきのみならず更に贊成の意を表せざるを得ず盖し此改正例を以て舊令に比すれば幾分か徴集の區域を廣くして國民の義務を負擔するに不公平の種を減じたればなり然りと雖ども之を實地に施すこと今日に至るまで既に二箇年にして國民がこの法律に對して如何なる擧動をするやと尋るときは其内實に於て言ふに忍びざるの不徳を働く者多し徳不徳は法律の問ふ可き限にあらざれば如何なる不埒者にても政府の罪人には非ずと雖ども公徳を重んずる我輩の私を以てするときは我國人に向て聊か不平なきを得ず其次第を簡單に申さんに

舊徴兵令には免役料の法ありて兵役合格の者にても二百七十圓の金を納れば役を免かれたるものが新徴兵令には此法を廢したるに付き富家の子弟は遁るるに路なく百方その方略を講じて三策を得たり第一學術修業と稱して外國に行く事、第二年齡六十歳以上の老戸主にして子なきか又は死籍に相續人なき者を求めて養子相續〓〓事、第三官立公立の學校に入る事、以上三策の中には外國へ渡航は兎に角に多少の金を要し且外情に闇き者は容易に企るの氣力もあらざれば其數甚だ少なしと雖どもも第二は最も簡便なる法にして甚だ行はれ易し老戸主及び死籍の家は世間に少なからず夫れも中等以上資産も慥なる家柄なれば養子を擇ぶに所望の廉も多けれども家もなく家財もなく所謂無戸の戸主が老して依る所なく死して遺族の飢る者は固より養子の人物其家筋を論ずるに遑あらず唯養子の記に若干の金を收領して相續と爲し兵役を免かれしむるのみ其事情を形容すれば銀を以て無戸の戸名を賣買する者と云ふも可なり或る通俗人の言に據るに戸名の價一樣ならず何百圓なるものあり何十圓なるものあり唯その養子たる者の實家の貧富と之を求るの緩急とに由りて異なり或る富豪が其男子二名の爲めに養家を求めて先方の家の負債を引受け老人を引取りて豊に之を養ひ表向きの名義は子を他家に遣りたるものなれども其實は一子の徴兵逃れのために一戸の寒貧家族を負擔し三子のために費したる金は千を以て計ふるの數なりと云ひ或は町家の雇人又は貧書生の如きは手輕に女戸主の家か又は偶然に都合好き死籍等を求め得るときは僅に十圓か十五圓金を以て目的を達することありと云ふ斯る惡習は舊徴兵令の時にも往々聞及びたることなきにはあらざれども其時代には彼の免役料の法もあり且嫡子は其父五十歳以上免役の法にして免役の區域廣くして最後に遁路もありしがために養子相續を求むること今の如く甚だしからず隨て戸名密賣買の風も盛ならず、賣買盛ならざれば價も亦貴からざりしと雖ども今や之に反して最後に金を納る法は廢して戸名の需要は以前よりも増したるが故に其密賣買に金を費すの多きも亦謂れなきに非ず或人の説にむかしの免役料は公に政府に納め今の免役料は私に貧老戸主に拂ふと言ひしは其言戲に似たれども事實の一斑を寫し得て妙なり又第三策の官立公立の學校に兵役を遁るるも倔強の手段にして且この手段は一錢金を費さずして目的を達すべきものなれば天下の人心これに向はざるを得ず新令布告以來官公立學校の盛なるは實に非常なるものにして以前は各地方に學校を設立しても兎角入校の少なきに苦しみたるものなるが今日の學校門前は常に市を成し唯その入れられざるを恐るるものの如し現に東京大學豫備門の如き生徒の數百五十名乃至二百名なりしものも次第に群集して今は既に千五百名に増したりといふ甚だしきは地方などに於て時としては教師に私謁して入校の義を宜しく御頼み申す者もあるよし尚甚しきは首尾能く入校して首尾能く卒業しては卒業後の年齡尚ほ徴兵の年限内に在り左りとては以ての外のことなりとて態と課業を怠りて試驗に落第し以て卒業退校の期を延ばすは小計畧を運らす者ありて之がために學校の教場に眞面目の勉強生と故造の懶惰生と打混じ教授のため不都合少なからざるものありといふ

右の外徴兵令に關して人民の奸策を施す事實はこれを計へて枚擧に遑あらず實を申せば竊盜放火等の惡事なれば唯政府の法に於て之を罪するのみならず人生普通の道徳心に訴て之を咎むること甚だしく仮令へ法律上に見遁がすことあるも公衆人の私に於て憐む者なきが故に罪を犯すことも自から少しと雖ども徴兵遁れの一事は少しく趣を異にし政府の法を遁れて譽むべき非ざれども左りとて其當局者に於て深く愧るにもあらず傍の人も亦大に之を賤しむにあらず今日民間の談に徴兵養子徴兵入校などいへば尋常一樣の事柄にして其工風いよいよ巧にしていよいよ狡猾なればいよいよ之を稱賛して遂に一塲の笑に附するに過ぎず流俗の弊風も亦甚だしと云ふべし斯る次第なれば何れにも特に方法を設けて嚴に取締を爲すこと今日の急要なるべしと雖ども差向き我輩の所見にて何も困難なくして弊害の一部分を防ぐの法は官立公立の學校に免役猶豫の特典を廢するの一事なり抑も今の徴兵令の精神を擴張すれば戸主も嫡子も官吏も貴族も區別なく苟も日本國に生れたる男子なれば一樣平等に國役に服せしむること至當なりと思へども是れは法律の根底より改正することなれば一朝一夕の議に决すべきに非ず故に此改正は他日の熟議に讓るとして彼の學校の特典を廢するの一事なれば今日これを令して明日より其實効を呈し何事にも關係する所なくして唯今日の弊風を除き去るの利益あるべきのみ一日を猶豫すれば一日の人心を腐敗せしむるの損害あり我輩は只管政府の英斷を祈望する者なり