「東京市中の防火法」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「東京市中の防火法」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

東京市中の防火法

東京市中の住民が火災に苦しむは一日の故にあらず在昔徳川幕府が始めて首府を此地に開きてより今に至る迄凡三百年の間に市中大小の火災は幾千萬回なるを知らず東京大學刊行の理科會粹氣象編に據れば明暦三年(四代將軍家綱公の時)より明治十四年迄二百二十四年の間に延燒地の直徑十五丁以上の火災は九十三回ありたりと云ふ就中明暦三年、寛文六年、元祿十一年、享保十年、安永元年、文化元年等の火災は孰れも江戸市街の三分一以上半數乃至全市街を燒盡したる大火にして之が爲めに財産人命を損したるは幾許なるを知るべからず明暦三年の火災の如きは燒死人の數二十萬以上なりと云ふを見ても其災の慘毒なりし一斑を想像すべし然れども往昔の事は偖置き單に維新の後近年の火災のみを擧ぐるも前記の氣象編に記する處に據れば明治七年より同十三年迄に毎年燒失する家屋の坪數は平均五萬二千坪にして建家一坪の價を平均三十圓なりとすれば毎年火災の爲めに燒失する金額は百五十六萬圓なり然れとも此れは火災の少なき近年の計算にして加ふるに建家の一坪の價三十圓は單に家屋のみの代價なれば之に其他の財産の價を合計するときはその損失高年々三百萬圓に及ぶべしと云ふ亦以て火災が東京府民に害毒を與ふるの大なるを見るべきなり

凡そ世の中の文明に進むに隨ひ人力を以て天然の力を制馭するの方法は次第に巧妙に進み暴風洪水地震雷の如き古代に在りて人力の能く左右する處にあらずと思はれたるものも今は理學進歩の力に依りて或は其働きを制し或は其害を避くること能はざるものなきに至れり氣象學の力にて暴風を先知するの法あれば船舶海中に覆沒するの禍を免かれ避雷針の發明あれば雷も其破壞力を逞うするを得ざるが如き是れなり迅雷風列の如き天然の災害すら之を防ぐに方法あるの今日况して火災の如きは天然の災害なりと云ふべからず之を防がんと欲せば十分に之を防ぐの法ありて然かも其方法は簡易明白何人にても之を行ふことを得るものなるに東京府民が故らに之を行はずして年々三百萬圓の富を燒き幾多の人民を倒産せしめて顧る所なきが如きは甚だ解すべからざる振舞なれども是亦自ら其原由なきにあらず何人にても火災の恐るべきを知らざるはなく又如何にせば火災を防止すべきかを知らざるものなしと雖も近きを見て遠きを忘るるは人情の常なるが故に萬人が萬人唯漠然と目前の出費を恐れて詳かに前後の得失を考ふる者なし其言に曰く火災防禦は大切なれ共莫大の入費を要する事にては我々の力に及ばず寧ろ不十分なりとも今の儘に指置くに如かずと是れ今日東京市民一般の考にして防火法の不完全なるも主として此に由來するなり此説は遽かに之を聞けば頗る道理あるが如くなれども元來火災なるものは恰も盜賊の如きものにして之を防ぐに十分の備なき時は何時にても人家に襲ひ來りて財貨を掴み去るものなれば苟も之を妨ぐの費用が守るべき財貨の價に過ぎざる限りは何程莫大なる費用を要するとも之を防ぐの法を設けざるべからず戸締りを嚴重にして盜賊の侵入を防くが爲めに一萬圓の金を要すと云はば如何にも莫大なる入費なれども其家に十萬圓の財貨ありとすれば一夕盜賊に押込まれて十萬圓を持去らるるよりは寧ろ一萬圓を費やして戸締りを嚴重にするに如かざるべし然るに世人一般の考の如く火災防禦法を十分にするは固に望む處なれども莫大の費用を要する事は我々の及ぶ所にあらずとて不充分なる儘に一日を遷延するは恰も戸〆りを嚴重にするは大切なれども莫大の金を要する事にては我力に及ばずとて戸口の不締なるまま盜賊の侵入に任するに均し無分別の甚しきものなりと云はざるを得ず既に云へる如く火事少ななる近年の經驗にても火災の爲めに一年平均三百萬圓の損失ありとすれば今後も今の儘に指置かば一年三百萬圓内外の損失は到底東京府民の免かれざる所なるが故に仮令年々防火法の爲めに三百萬圓宛を費やすも之が爲めに全く火災の害を絶つことを得ば今日に比して損する處なきのみならず毎年火災の爲めに一時に無數の貧民を生ずるの憂もなく全都の市民終年枕を高うして其堵に安んずることを得るの利益は間接に都下の繁昌に何程の助を與ふべきかを知らず况んや防火法を十分にするが爲めには必ずしも永久年に三百萬圓宛を要せざるに於てをや我輩は切に東京府民が此等の道理を合點して速かに完全なる防火法を設くるに至らんことを希望するなり

火災防禦の大切なること此の如くなれば東京府民は何事を指置きても先づ防火法に着手せざるべからず偖て之に着手するに付て其順序方法は如何と云ふに最も急務なるものは火災を未發に豫防するの方法なり火災豫防の方法は一にして足らざれども他の事は概ね瑣細の事なれば一々之を論ぜず唯一事の最も大切なるものは家屋改造の事なり東京の市街が數々大火に罹る其原因は樣々あるべしと雖も萬人の見る處にて第一の原因なりと認むるものは市街の家屋が可燃質の材料より成るの一事なれば今若し悉く之を煉化又は石造の建物に改造するときは唯此一事にて火災の沙汰は殆ど地を拂ふに至らんと疑なし左れば十分に火災の憂を絶たんと欲せばなによりも先づ家屋を改造するが急務なれども退て一考すれば一時に東京全都の家屋を煉瓦又は石造に改めんとするも理論は偖置き到底實際に望むべからざる企でなれば巳を得ず漸を以て之を行なはざるべからず幸にして兩三年以來東京市區改正の議論も當局有司の注意を促がし先年芳川顯正氏が東京府知事たりし時市區改正の意見を草して政府に上申したるより政府も其議を採納して昨年の初め東京市區改正委員を撰任し其後右の委員は數々會議を爲し昨年の末に至りて孰れも其任を解かれたるを見れば其計畫は既に一定して遠からず世間に公にせらるるならん今日の處にては我輩未だ其方法の如何を知る能はざれども委員諸氏は市區改正の大目的たる商賣の便利を謀るの外に防火法の利害得失をも斟酌熟考したるは疑を容るべからず但し右改正の方法は市區を改正すると共に家屋をも改造するの法なるか又は家屋の改造は後にして專ら道路河川上水下水等の改正を旨とするものなるか此等の點は本論の目的よりして我輩の最も聞かんことを願ふ所なれども當局者の見込は兎も角も我輩の意見に於ては市區の改正と共に年を追て家屋をも改造し若干年の後今の東京の市區が一變して最初の改正雛形の如くに改まる頃には市中の家屋も亦一變して今日の矮陋なる木造の家屋に引替へ石室比檐高閣雲を凌ぐの偉觀を呈するに至らんことを希望するなり          (未完)