「東京市中の防火法」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「東京市中の防火法」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

火災防禦の忽にすべからざること並に之を防ぐに家屋を改造するの急務なることは前號の

紙上に論述せしが如し然れども家屋改造の事たる何れにも重大なる事業なれば假令東京府

民が非常の熱心を以て此事を擧行せんとするとも尚動もすれば遲滯遷延に陷るの恐れある

ものなるに前にも云へる如く多數の人民は目前の費用を憚りて永遠の利uを思ふに暇あら

ざるものなれば今例へば府民に百万圓の新税を課して漸次に市中の家屋を改造すべしと云

はゞ無智淺見の徒は必ず囂々として異議を唱へあらゆる力を盡して此企を破壞せんことを

務むるは鏡に掛けて見るが如し之を思へば我輩が家屋改造の希望も茫乎として雲霧の中に

在るの思なきを得ず左れば徒らに理論上の急務を先として家屋改造の一事のことを望まば

東京市民は今後長く火災の害を免るゝ能はざるが故に我輩は一方には飽までも家屋を改造

して火災を未發に防がんことを望む傍らに又一方には今日の消防法を改良して既發の火災

の蔓衍を防ぎせめては今日よりも少しく火災の慘毒を少なくせんことを望まざるを得ず依

て是より少しく消防法改良の意見を陳して當局者の參考に供せんと欲す

現今東京府下の消防の仕組を聞くに消防の事務は総て警視廳に屬し警視廳内に消防本部を

置き十五區内に六分署を置き各分署の一定の消防夫を配置し警部巡査數名を消防司令官と

して各分署を統轄せしめ本分署共に年中毎日八名乃至十二名の消防夫をして交代當直して

不意の警めに備へしめ毎年十一月の初より翌年五月の初迄即ち冬春二季の火災多き時節に

至れば別に五十三箇所の消防分遣所を設け一箇所毎に消防夫十名をして交代當直せしむ而

して消防夫の數は一組五十人(一組は組頭小頭各一人組頭副小頭副各二人一等消防手廿人

二等消防手二十四人より成る)にして都合四十組即ち二千人あり一分署の管する所多きは

五百人より少きは二百五十人に至り一組毎にポンプ其他消防器具を備へ出火の際には組頭

小頭等が組中の人員を率て火事塲に臨み他の組々と共に消防司令官の指揮を受て消防に從

事す偖又消防夫の給料は平常足留給として一人に付二圓より二十錢迄の月手當を給し又消

防本分署に當直する者には一人に付四十錢より三十錢迄消防分遣所に當直するものには一

人に付二十五錢より二十錢迄の當直日當を給し此外に出火の際には火掛日當と稱して非番

の消防夫一人に付臨時に二十錢より十五錢迄の日當を給するの法なり今明治十八年度九箇

月分の消防費豫算を聞くに區部警察費の中消防及び水防費に屬する金額は六萬三百三十餘

圓にして内、地方税の負擔に係るもの二萬四千百三十餘圓國庫支辨の屬する者三萬六千に

百餘圓此の中水防費千六十餘圓を除きて消防費に使用すべきものは五萬九千二百七十餘圓

なりと云ふ(本文の豫算は會計年度の變りたる際にて九箇月分の豫算なれば一年分の經費

を知らんと欲せば此割合にて推算せざるべからず讀者之を諒せよ)

右は我輩が聞得たる現今の消防法の大要にして其組織頗る整備するが如しと雖も我輩の見

る處にては尚不完全なりと思はるゝもの少なからず而して其不完全なる要點は重に消防器

具の備はらざると消防の手續きの迅速ならざるとにあるものゝ如し抑火を防ぐに水を以て

せざるべからざるは物理の定則にして古今の通理なれどもコ川時代には殆ど水を以て火を

防ぐの器具なく僅に龍吐水と稱する不完全のポンプを以て最上の防火噐としたる程なれば

當時の消防は器械の力に依らず專ら消防夫の腕先きに頼りたりと云ふも可なり然るに維新

後明治六年頃に至り故川路大警視が始めてポンプ十餘臺を佛國より買入れ尋て石川島監獄

署の囚徒其他をして之を摸造せしめ又一昨年頃より獨逸製のポンプをも摸造して夫々消防

の用に供することとなし現今にては各消防組に獨佛式のポンプ各一臺宛を備へ合せて八十

臺のポンプを備ふるに至りたれば往時に比すれば消防器具の改良したること幾許なるを知

らず然れども元來東京の家屋は概ね火に罹り易き木造の建物なればポンプの力が龍吐水に

十倍するも未だ之を以て十分に火を防ぐに足らず若しも我輩の希望の如く東京市中の家屋

が悉く煉瓦又は石造の建物となるに至らば今日丈けの消防器具にて十分に防火の目的を達

する事もあらんと雖も現に西洋諸國の大都會の如き概ね煉瓦石造の建物より成れる市府に

てすら近年蒸氣ポンプの發明以來は重に之を採用して尋常のポンプの如きは田舎の都邑に

て之を用ふるに過ぎずとの事なれば况て今日の東京の如き火災の淵叢とも云ふべき塲所に

於ては决して獨り之をョみて自ら安んずること能はず左れば當局者も夙に此邊に着目して

昨年中始めて數臺の蒸氣ポンプを買入れ之を實地に試用することとなしたるは我輩の最も

賛成する所なり蒸氣ポンプは人力を借らず汽力にて運轉せしむるものなれば人手を省くが

上に運動にも不規則なく而して其水を放射するの力は尋常のポンプに十倍し今日に於て防

火器の最も精良なるものなれば普ねく之を用ふるときは府下の火災を減少するに於て著る

しき効果あらんこと疑を容れず然るに如何せん現今東京市中に備へある蒸氣ポンプの數は

僅に三臺に過ぎざれば此少數にては仮令何程の利噐なりとも其功能の及ぶ所の區域甚だ狹

小ならざるを得ず勿論當局者の心にも之を以て足れりとせずして追々に其數を揄チすべき

見込なるべけれども我輩は唯一日も早く不足なき丈けの數を備へんことを欲するなり東京

市中幾許の蒸氣ポンプあらば不足なき乎は實際其局に當れる人々ならでは知り難き所なれ

ども今仮りに各消防組に一臺宛を備へしめ都合四十臺の蒸氣ポンプあれば之が爲めに大に

防火の働きを揩キべし若しも是にて不足ならば之を二倍して八十臺となすべし尚不足なら

ば三倍して百二十臺となすべし聞く所に據れば蒸氣ポンプ一臺の代價は大形にて凡三千五

百圓内外なりと云へば四十臺の價は凡十四萬圓百二十臺とするも四十二萬圓に過ぎず勿論

東京十五區の地方税六十六萬餘圓(明治十九年度豫算)に割合すれば四十二萬圓は些少の

金額にあらざるが故に今ポンプ一品を買入るゝ爲めに一年の負擔に四十二萬圓を揄チすべ

しと云はゞ俗人は必ず此一言に膽を破られて初めより之を目するに狂人の説を以てするな

らん然れども試に思へ今年此四十萬圓を費やしたる爲めに今年よりは毎年火災の爲めに三

百萬圓の富を失ふべきものが二百萬圓若くは百萬圓の損失にて止こととならば一箇年間の

計算にても差引五十萬圓乃至百五十萬圓を得るの勘定ならずや况や一たび蒸氣ポンプを備

ふれば其後は別に費用を要せずして永く火災の害を少うするを得るを以て永年間の利uを

見積れば最初四十餘萬圓の出費の如きは言ふにも足らぬ小額なるに於てをや且我輩は防火

器の改良に金を費やすの損失ならざるを證せんが爲めに態と極端の塲合を取て仮りに一箇

年間に四十餘萬圓を支出するものと定めたるものなれども實際に於てはポンプ買入れの費

用は必ずしも四十餘萬圓を要せず或は今後通常の佛獨式のポンプの如く内國にて之を摸造

するを得ることともならば一層廉價にて手に入るゝことを得べく又其費用とても必ずしも

一年間に之を支出するを要せず府債其他の方法を以て永年を期し少し宛之を支辨するの工

風は樣々あれば之を行ふにも亦必ずしも世俗の耳目を驚かすの恐ありと云ふべからず消防

器具の改良一日も猶豫すべからざるなり(未完)