「東京市中の防火法」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「東京市中の防火法」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

消防器具の改良と共に消防の手續をも改良せざるべからず此點に付ては改良を要する事甚

だ多しと雖も就中其重なる個條は第一に出火の警報を迅速ならしむる事なり今日にても消

防本分署の間には電信の設けありて彼此互に警報を傳送するを得ると雖も消防本分署を合

せて東京市中に僅か七箇所に過ぎざれば各署の所轄内に起りたる出火を其所轄署に報ずる

迄に既に多少の時間を費やさゞるを得ず故に此憂を絶たんが爲には宜しく各署より其所轄

内の消防分遣所又は巡査派出所等へは夫々電信又は電話線を通じ置きて何方よりも直ちに

出火の警報を其管轄の消防本分署に傳ふることを得せしむべし(電話機は電信機に比すれ

ば器械も簡易にして費用も掛らざれば此等の用には最も適當なるべし又巡査派出所に皆此

設けあらば獨り防火の爲めのみならず一般の警察上にも至極便利なるべしと思はる)又此

外に西洋にて行はるゝ火事知らせ函(下に見ゆ)の法の如きも之を我國に試用せば必ず一

層警報の迅速を加へることならん其次には早くポンプを火事塲に引付くる事なり我輩毎に

府下にて出火の實際を見るにポンプの火事塲に到着すること甚だ遲く最近の塲所より持來

るものにても出火の際より暫くの時間を經ざれば來らず少しく遠方より來るものに至りて

鎭火の後に至りて始めて到着するものさへ少なからず是れ一つには出火警報の迅速ならざ

るにも因ることなれども他に亦其原因なきにあらず其故は今のポンプ八十臺は皆消防手の

手にありて消防一組にてポンプ二臺宛を引出すの法なれども消防組の所持する道具は獨り

ポンプのみならずして其他に纏、梯子、刺又、玄蕃桶消口札など樣々の道具ありて之を持

出すにも亦若干の人數を要するに付少なくも此等の道具を持出す丈けの人數ありて之を持

出す用意の整ふまでは獨りポンプのみを先に持出すを得ず是れ自然にポンプの引出し方ま

で延引するに至る所以なり(米國などにては梯子其他消防に必要なる道具は皆一の馬車に

積みて出火の際には消防夫も之に乘り蒸氣ポンプと共に引出す仕組なれば直ちに火事塲に

馳付くるを得ると云ふ)左れば今の如き方法にては仮令多くの蒸氣ポンプを備ふるも到底

十分に其功能を見ること能はざれば今後はポンプの取扱を消防組の手より奪ひ取りて別に

ポンプ組なるものを設け專ら之にポンプの使用を任するに左もなくば今の消防組の中にて

特にポンプを取扱ふものを定め平時と雖も不斷ポンプの運轉を演習せしめ出火の際には獨

立の運動を爲さしめ警報一たび到れば他を顧みずして一目散にポンプを引出すが如き仕組

となさんこと大切なるべし此等は鎖細の事にして殊更に此に喋々するに及ばずと思ふもの

もあらんと雖も元來火を防ぐも總ての災害を防ぐが如く初めに易くして終りに難きものな

れば初めには容易に消止むべかりし火災も僅に數分時間を後れたるが爲めに救ふべからざ

る大災に至るが如きは人々の常に見る處なるが故に出火の警報を迅速にしポンプの取扱方

を改良するは防火上に最も肝要なることゝ知るべし又水道の制の如きも防火の點より云へ

ば尚改良を要するものあり現今府下にて下町と稱する所は至る處水道の設けあれば防火の

爲めにも甚だ便利なれども塲所に依りては尚水に乏しき所ありと云ひ又本所深川の二區及

び芝區邊は全く水道の設けなく山の手に至れば水道ありと雖も其及ぶ所廣からざれば孰れ

も消防上に困難ありと云へり左れば此等も夫々速かに修繕又は新設の計畫を爲すべし此外

細密の個條に渉れば尚許多の改革を要する事あれども此等は當局者の注意と實驗とを以て

巧みに之を擧行するに餘りあるべしと信ずるを以て一々之を枚擧せず之を要するに現今の

消防法は重に消防の良噐に乏しく專ら人の腕先きを防火の利噐と頼みたるコ川時代の遺制

を承傳したるものなれば消防人夫の多き割合には消防の實効を奏すること少なく又其消防

夫の如きも概ね往時任侠の遺風を存し火に臨みては生命をも顧みず其擧動の活溌剛勇なる

往々人目を驚かすに足るものありと雖も是又孰れも個々獨立の働きにして合同一致の働き

を爲すに慣れざるものなれば所謂匹夫の勇にして防火の爲めに左程の役目を爲さゞるは恰

も古代の勇士が長槍大劍を掲げて單騎敵兵と接戰するも實際敵を殺すの多きに至りては却

て今の尋常の兵卒が精鋭の銃噐を取り號令に依りて進退するに如からざるが如し左れば我

輩の望む所は今の戰爭に匹夫の勇を貴ばずして噐械と號令とを重んずるが如く今の消防に

も亦專ら器械と手續とを重んずること諸文明國の現に爲す所の如くにして根抵より今日の

消防法を改革せんとするに在るなり我輩は今此篇を終るに臨み今日西洋文明の國々に行は

るゝ消防法は如何なるものなるかを示し當局者をして消防法を改良するの摸範となさしめ

んが爲めに左に昨年六月十九日の時事新報に載せたる米國通信の一項を摘記して讀者の一

覽に供す

(前略)過日午後七時頃同宿の某遽たゝしく小生の室に駈け來り唯今隣家にて火を失した

り早く屋根に登りて見られよと云に付直に二人して屋根に登り隣家の屋上迄至り見るに最

早大抵鎭火して唯白き煙の出るのみなりし然るに其時前の町には既に三輛の蒸汽ポンプ及

び楷梯等を積みたる事など集り居り向ふ通りなどにてはポンプの來るを見て始めて町内に

火事のあるを知る位の始末なり當國にて防火法の整頓せるは實に驚くに堪へたり總て當國

の都府にては諸處にFire alarm box(火事知らせ函)ありて誰にても火事の起るを見るとき

は直に最寄の函に駈付けて鍵を捻れば電線にて其報忽ち全市中の消防局に達し又同時に諸

寺院にも達するを以て寺院にては銘々直ちに鐘を鳴して府民に報する其時は火事の起りた

ると殆ど同時なりと云ふも可なり又消防局にては常に數輛の蒸汽ポンプを用意し置き何時

にても警報あると同時に馬を繋ぎ置ける綱は自然に解くる仕掛けに爲し置けば馬も豫て慣

れ居る故綱の解るを見れば直に飛出して蒸汽ポンプの前に立つ其時一人の消防夫が一筋の

綱を引けば天井に吊しある道具がガラガラと下り來りて馬の体に巻付くを以てポンプは直

ちに進行するを得べし又大抵の消防局は二階の床に三尺四方程の穴ありて其中央に直徑三

寸程の眞鍮の棒を立て置けり是は二階に寢るものが警報を聞きたる時階子などを駈け下り

居ては間緩き故直に此穴より棒に縋りて滑り下る爲めなりと云ふ又蒸汽ポンプには石炭の

用意常に整ひ居り其傍に石油に浸したる綿と摺附木とありてイザと云はゞ直ちに火を焚付

くるを得べく又汽罐の湯は晝夜共時々之を温むるを以て决して冷水となることなし右の如

く萬端の用意至らざる處なきを以て警報の至る時とポンプの發する時との間は僅に五六秒

時なりと云ふ我東京抔の如く火事の濟みたる後やゝしばらくして始めてポンプを引出すや

うなる不都合なし當國の家々は總て煉化若くは石造なれば火災も隨て少なき事なるに斯く

許り消防法に注意するを見ては日本の如き名代の火事國にては何程の勞費を要するも充分

に消防法の改良を謀りて然るべしと思はる云々

右は米國ボストン在留の社友某氏が實地に目撃したる一斑を記して我輩のにしたるものに

て其消防法の完全巧妙なること眞に驚くに堪へたりと雖も細かに其次第を尋ぬれば是れ只

米國人が防火の大切なるを認めて之が爲めに十分の費用を惜まざるの致す所にして別に其

間に~異不可思議の原因あるにあらざれば我日本にても苟も之に傚はんと欲せば今年より

も容易に之と同一なる消防法を東京市中に實行するを得べきなり我輩は返す返すも東京市

民が眞實に防火の忽にすべからざるを悟りて一日も早く米國人の所爲に傚はんことを切望

するなり(完)