「衣食住の改良」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「衣食住の改良」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

衣食住の改良

日本に西洋流の新文明を輸入したるは今より三十餘年前の昔しに在り三十餘年長からざるにあらずといへども此長日月の間に日本社會の有樣を變化したることも亦少なからずして今日の日本を取てこれを三十餘年前の日本に比較すれば彼此の間に大相違あるを見出すべし此相違の或る所即ち文明進歩の跡ありと思へば我々日本人の心中竊かに自強の意なきにあらず然れども今日まで所謂日本の文明開化なるものを見るに多くは學術心理上の進歩に關するものにして專ら人身の内部に屬し其外形社會上の進歩改良に關するものとては極めて少なく極めて低し盖し心は人事の根本なり故に西洋の文明を採用するにも其學を講じ理を論じて先づ安心の在る所を定むるは適當の順序たるに相違なしといへども唯此一方にのみ偏して精神外の事を忘るるときは必ず亦其弊に堪えざるあらん健康の精神も健康の身躰を〓ちて其用を爲すものなりとの事實を忘るることなくして文明開化も亦始めて其圓滿を期するを得べき〓〓

近來日本全國の風潮を察するに漸く文明論の理論にのみ偏することを止めて更らに社會の實事は改良を加へんとするの傾きを生じたるが如し衣食住改良論の實行の如き最も著名なる事例なるべし我輩今此風潮を察して〓甚だ〓〓に堪えず身に洋服を服し口に洋食を食ひ洋風の家屋に住居する者即ち文明開化の人なりといふの意にはあらずといへども洋服を服して坐作進退を活溌輕便にし洋食を食して身体を強壯にし洋風の家屋に住して風雨寒暑盜難火災を防禦するの工風を得るは人心内部の文明開化を事の實に施し又其進歩を助けて益高〓〓〓〓の方便なるがゆえに衣食住の改良亦是れ文明の進歩なりといふも敢て不可なかるべし

日本人の衣食住を取てこれを西洋文明人の衣食住に比するに一の命彼れに劣らざるものなし然れども今、日本流の衣〓取〓て三者何れを改良するを以て第一の急務と爲すべきやと云はんに衣にもあらず住にもあらず必ず〓其食に在ることならん日本人が冬に着る所の綿〓〓袖夏に着る所の縮み單衣下駄雪駄に至るまで其製共に文明の用に適せざるものに相違なしといへどもこれを洋服に比して其便不便實に雲泥の相違なりといふ程に至らず又日本流の家屋は實に矮陋不便なるものに相違なしといへども少しく意を用ふれば姑息ながらも幾分かこれを西洋風に擬して變通の用を爲さしめ得ざる程のものにあらず故に日本の衣住と西洋の衣住をは其相距る甚だ遠きにも拘はらず幾分か互に相通ずるの關係を有つものなりといふを得るといへども日本の食と西洋の食とは同じ人身の榮養を助くるものながらも實際に當ては全く其主義を異にするかの疑ある程のものにして其成跡の利害自他の相違、中に就き最も甚だしきが如し日本人は肉食を忌みて穀食を貴び偶ま肉類を食するも河海の魚介に過ぎずして其分量は極めて少なからんことを欲し西洋人は肉食を貴びて穀食を賤しみ其分量は勉めて多からんことを欲す其成跡として日本人は躯幹短小顏色蒼々として喪家の狗の如く西洋人は骨格偉大心身強壯にして千里の駒の如し身体既に虚弱なれば心獨り強壯なる能はず心身共に虚弱なる一種の不具者にして文明開化を談じ萬國と對峙するを希望するが如きは雁の飛ぶを見て羽繕ひせんとする瓢箪と一般徒らに世の物笑ひと爲りて終るべきのみ故に我輩は近來日本人が精神外の文明進歩に注意し衣食住等の改良に熱心するの状を見て欣喜に堪えず一人も其人の多からんことを望む中にも食物改良の一點に付ては別段の注意あらんことを願ふて止まざるなり

食物改良の事に關し序ながら政府の當局者に向て一言を獻じ度きは陸軍兵卒の食物の事なり今の兵營の賄方を見るに兵士の常食は米を第一としこれに少許の野菜魚類肉類等を添ふるを以て一般の規則と爲すものの如し然れども穀食肉食其成跡は果して喪家の狗と千里の駒との相違を生ずるものとせばせめて在役三年の間丈けは專ら肉類を食せしめて其体力を養ひ糾々たる武夫眞に國の干城たるに愧ぢざるものと爲らしめんことを欲するなり人を養ふは猶ほ馬を飼ふが如しと藁と水とにて腹を脹くらしたる馬と麥大豆を飽食したる馬とは仮令其生命に別條なきも主人の實用を爲すの一段に至りては彼此非常の相違あり又其相違は麥大豆の入費を償ふて尚ほ甚だ餘りあるなり馬既に然らば人も亦然るのみ且つ兵士が日本流の米の飯を廢して西洋流の麺包肉類を常食とするの利益は平生身体強壯の一事のみならず別に戰時行軍上に一大利益の存するあり日本にて陣中士卒の兵粮に米の飯を用るの不便あるは古來人の熟知する所にして大釜を擔で兵士の後に從ふの不雅なる類は措て論せず第一に米の飯は三五日分を一時に炊き置くべからざるのみならず炎暑に際すれば今朝の飯を今夜まで貯へ置くことさへ出來難し斯る不都合の食物にして爭で神出鬼沒眞劍の戰塲に兵粮の役目を〓すことを得べけんやこれを彼の麺包乾麺包〓肉類の貯蓄運搬ともに自由自在なるに比すれば固より同日の論にあらざるなり麺包肉類戰塲の好兵粮なりといふも兵士にして平素より此食物に慣れ居らざる時は俄かにこれを用ふべからず強てこれを用ひんとせば■(つつみがまえ+「夕」)卒の際必ず全軍の健康を害するの恐あらんこれを避くるの法は唯平素在營の日より此種の食物に慣れしむるに在るのみ故に我輩は思ふ今の兵士の食物を改良するは今の護國の一急要事たるべしと