「敎育の方向如何」
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時事新報に掲載された「敎育の方向如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
敎育は何のためにするやと尋ねられて、一寸返答に困る其趣は、人は何のために生れたるやと問はれたるもの
の如く、其問題を解くこと易きに似て易からず。人として敎育を受るは其所得の藝能に依賴して生計を求るがた
めなりと云へば、生計既に豐なる者は敎育の要なきが如し。或はその豐ならざる者にても、常に足れるを知りて
多を求めざれば、辛苦學ぶにも及ばざることなり。或は敎育は脩身道德を根本として、父母に孝行、兄弟に友愛
の道を學ぶがためなりと云へば、生れて父母なく又兄弟なき者には敎育不用なりと云ふも可ならん。左れば此問
題は至極解釋の難きものなれども、強ひて我輩の鄙見を陳べよとあれば、敎育の大眼目は人生を發達してあらゆ
る心身の能力を擴張し、禽獸の境界を去ること次第にますます遠からしむるに在り、敎育を受るは自から爲にす
るものなり、人の爲にするにあらずと答んと欲するものなり。抑も人の生るゝや無智無德にして他の禽獸に異な
らざるのみならず、或る智惠の部分に於ては禽獸にも劣るほどのものなれども、之を敎ふるときは其心身の發達、
異常絶倫にして、殆んど際限なきものゝ如し。蓋し人類を萬物の靈と稱して獨り之を區別するも、此邊の妙處を
指したることならん。而して今その發達して靈妙の域に進みたる跡を見るに、進歩の一歩一歩次第に禽獸の境界
を去ることにして、人物の智愚、社會の文不文など云ふは、皆この距離の遠近に準じたるものなるが如し。例へ
ば小兒を無智なりと云ひ、大人を智なりと云ひ、桀紂は無道なりと云ひ、堯舜は盛德なりと云ひ、又或は往古の
時代と今世とを比較し、歐米の文明國と亞非利加の野蠻國とを比較して、優劣の品評を下すも此標準より外なら
ず。卽ち小兒桀紂は禽獸に近くして、大人堯舜は之に遠ざかり、古代の人民、今代の野蠻國人は、禽獸を去るこ
と遠からずして、今の文明國人は其境界を離るゝこと遠きものなり。
左れば今社會の生民として敎育を要するは、人類に固有する所の智識を開き德義を硏き、以て禽獸を去るの距
離を遠くせんとするの目的より外ならざれば、人の爲に非ず、自から爲にする者なり。家の貧富に拘はらず、父
母兄弟の有無に論なく、其心身の地位を高尚にして次第に禽獸に遠ざかり、以て眞成に萬物の靈たらんとするは、
敎育を外にして他に手段ある可らず。既に智德高尚の位に達すれば、其働は發して一身一家の實業に現はれ、以
て生計を偕か可し、以て父母に事ふ可し、以て家族に親しむべし。之を外にしては公共の事に及び、以て公利を
謀り公益を助成すべし、以て國に報じ、以て君に忠なるべし。其條件は枚擧に遑あらず、何れも人生の發達して
公私の事實に現るゝものなれば、身の敎育は恰も樹木の根に培養するが如く、其功能の人事に現はるゝは枝葉と
爲り花實となるに異ならず。然るに文明の人事は多端無限にして、之に處するには一藝一能一智一德を以て足れ
りとす可らず。故に今敎育の大目的を問ひ、何のために敎育するやと云ふときは、人生の一藝一能一智一德を掲
げて之に答ふ可らず。或は生計を求るがためなりと云はんか、生計を得るの一能、未だ以て人事を盡したるもの
に非ず。或は父母に孝ならんがためと云ひ、又は報國忠君のためなりと云はんか、孝道報國忠君の一德、未だ以
て文明の百端を包羅するに足らず。若しも是れ等の一智一德を目的に立てゝ敎育の方向を定めんとすることもあ
らば、其趣は恰も一枝一葉一花一實を要するが爲にとて樹木を培養するに異ならず。藝樹の法にあらざるなり。
唯天下の槖駝は能く樹木の根を養ふて其生力を盛にし、枝葉花實は其自然の發生に任して各その美を呈せしむる
のみ。敎育の槖駝、果して此に見る所あるや否や。 〔二月二十四日〕