「帝室の緩和力」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「帝室の緩和力」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

文明の衆政論紛々として理の八釜しき世の中にて理論を以て理論を制せんとすれば互に相

撞着して徒に世の風波を激するに過ぎず即ち民情調理の爲め帝室の緩和力を此際に導て情

の部分より國の融和を保つこと甚だ肝要なる所以なり因て今其例を求めて之を日耳曼國に

得たり抑も今の日耳曼皇帝ウヰルヘルム第一世陛下は高齢已に八十九歳にして夙に叡聖文

武の聞あり人心収攬の一點に至ては帝の最も鋭意する所にして去る千八百七十年普佛戰爭

の際佛軍は雀躍して巴里城を出でたれども帝の伯林城を發するや鞍に據て宮闕を回顧し國

の興亡分け目の一戰、人民の肝腦地に塗るゝを悲しみ涕涙襟を霑して遲々去る能はざりし

かば國民帝の赤心を察して欽仰ますます切に翌年遂に帝を推して日耳曼皇帝の位に即かし

むるに至りたり帝は居常民を憫れみ鰥寡孤獨廢疾の爲めに御手許金を賜はること屡々なる

が故に其自から奉ずること極めて薄く宮室甚だ簡朴、一日帝或る銀行頭取の宴に赴き其器

具裝飾品の美麗なるを見、窃に左右を顧みて朕の身代にては迚も是程の壯觀を盡くすこと

能はずと語られたることありと亦以て帝の平生を知るべきなり帝は皇子皇孫に對して庭訓

頗る巖に毎日一度皇孫を召し諸官省の組織、地方政治の模樣等に就き疑問を出して其答を

聞くを常とす又或る陸軍大佐は皇孫が其命令に違ひたるを責め鞭を以て之を打擲しけるが

皇孫は其由を祖父君なる帝に奏聞するや否、帝は大佐に出頭の命を下したり、大佐は命を

聞て恐縮し吾れ鞭を愛孫に加ふ、巖罰目前逃るゝに處なしとて恐る恐る御前に進みければ

帝は喜色面に溢れ汝は眞に國を思ふの士なり今より汝を少將に任じ尚幼孫への敎訓をもョ

むなりと有り難き勅語を下しければ大佐は感泣して恩命を拜し士は己れを知るものゝ爲め

に死す、吾れ今日に至て死所を知れりとて退く之を人に語りたりといふ帝は其職務を視る

こと極めて重く數十年一日の如く未だ曾て事を以て之を廢せず一両年前の事とか觀兵式の

擧あり此時帝不豫にして宮中に引き籠り侍醫も頻りに臨式の不可を陳じたれども帝遂に之

を聽かず一年一回の觀兵式、朕之れに臨む能はざれば此位を保つことを得ずとて例の通り

臨式あり式塲中偶ま騎兵の落馬せしものありしに帝は御馬より飛び下りて懇に之を介抱さ

れたれば滿塲の感嘆暫時已まず鬼を欺く荒くれ武者も脆くも感涙に沈みたりと云ふ又帝の

政務を視るや巖密鄭重、些の粗略なく前年我國人某氏が公用を以て伯林府に赴き府中の驛

遞局に至りたるに總官の卓上に其上申書あり紙尾に朱筆にて三百マークと記し之を消して

三百五十マークと書き直し更に之を塗抹して最後に四百マークと記し斯てウヰルヘルムの

御名を署しありたり即ち此上申書は驛遞總官が驛遞局官吏の恩給を三百マークに定む可し

との奏議に係り帝は熟考の上三百マークに定む可しとの奏議に係り帝は熟考の上三百マー

クにては不足なり三百五十マークに决せんとして尚再考の後更に五十マークを加へ都合四

百マークに裁决されたるものなりとぞ帝の皇后アウガスタも亦敏達の聞あり數年前の事と

か伯林府の我公使舘に雇はれたる日耳曼の下婢、誤て窓外に顛墜したることあり此時傍に

人を見ざれば時の日本公使は手を取て之を扶け當座の治療を加へたるに翌朝に至りて一封

の書翰到來せり披て之れを見れば皇后の親書にして昨日我國民が偶然の怪我ありし折、親

切の介抱、厚意謝するに堪たりとの文意なりしかば我公使も偏に皇后の聰敏なるに感じた

りと又或る片田舎にて父老相會して一寺院を創立せんと出金經營の其際に紳士風の一人徐

に入り來り寺院創立は奇特の事なり尚幾何金を醵集すれば十分なりやと聞き了り扨て其金

を寄附したる處にて斯く申す余は皇太子フレデリツキウヰルヘルムなりと名を告げて立去

りたれば父老の喜、言語に絶し只管其恩コを感佩するばかりなりしと右等は二三の例にし

て其他日耳曼皇帝皇后を始め皇族方の中にて情を以て人心を収攬するの擧動枚擧に遑あら

ず左ればにや日耳曼國民が皇室を愛するの心は表裏に徹底して動かす可らず彼の共和主義

社會主義等の政論に熱心なるものにても皇族の美擧嘉行を耳にする時は自から其懷に感激

する所なき能はず即ち目下日耳曼にて右等政論の熱を緩和し以て今日の平穩を保つことを

得るはビスマルク公の政治に熟達して武名兒啼を止むるが爲めのみに非ず帝室の緩和力其

効尤も偉なりと云はざるを得ず我輩は前途幾年の事を豫想して日本の社會上にも此緩和力

の靈用を大にすること經世家の今日に熟慮す可きことならんと信ずるなり(畢)