「日本國の海軍畧如何」
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時事新報に掲載された「日本國の海軍畧如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本國の海軍畧如何
西郷海軍大臣は來る五月頃海軍事務視察の御用を以て歐米各國を巡廻すべしとなり是より先き我政府の命を以て武官の歐米諸國を巡視せし者少なからず一昨年中は大山陸軍卿の歐洲行あり今又西郷海軍大臣の巡廻あらんとするを見ば我政府の海陸軍擴張に熱心なるは言を俟たず特に海軍擴張は我日本の國と爲りに於て一日も忽にす可らざるが故に今度海軍大臣の使命は其任最も重しと云はざるを得ず扨て今海軍擴張と云ふ其意味甚だ漫然たれども我政府にては今の海軍を何の邊まで擴張するの所存なるにや先づ以て之を定むること肝要なるべし目下歐州諸國にては競ふて陸海軍を擴張するの風あれども之を擴張するには其尺度として目指す所あり决して漫然たる者に非ざるなり例へば英國の海軍は佛蘭西、伊太利の海軍を合せたる者に敵するを目的とし一昨年中より英國に海軍擴張論ありペルメル ガゼツト新聞の如き首として之を主張せしが其論旨とする所は近年英國の海軍漸く老衰を催ほし事の實際に於て佛伊兩國の海軍を合したる者に頡頏する能はざれば大に之を振起せざる可らずと云ふにありき、佛國の海軍は肩を英國の海軍に比するに至ることを目的とし獨逸は陸軍を以て長を見るが故に海軍に於ては唯其敵の來て上陸せざるを度とし專ら砲臺及び水雷火船等沿海防禦の一點に其力を致すものの如し即ち歐州各國に於ては其海軍力を擴張するに各種各樣の目的ありと雖も我國の海軍は何の國を敵として何の邊まで擴張するの所存なるにや日本人武勇なりと云ふと雖ども獨力を振ふて世界各國を一度に敵とするの妄想もあるまじ或は又海軍を指揮して歐洲征伐に出張するの大望もあるまじとして唯居然たる此日本國を守りて安全なるを得ば足れりとして扨外より來りて我に敵する者は何人なる可きや近年英國は東洋に跋扈し事に托して既に巨文島を占領し又緬甸國を滅したり其政慾甚だ恐る可しとの心底を以て英國の攻撃に備へんとするか英國に東洋艦隊ありて常に印度洋及び支那海の邊に出沒集散せり此艦隊は東洋に於ける英國の力を表するものにして一旦事急なるも英國は此艦隊に向て本國より更に五艘の援艦を送遣するを餘程六ケ敷かる可しとの世評もあれば軍に英國に備へんとの心底ならんには日本にては唯英國東洋艦隊に五艘を加へたる丈の海軍力を養ふを以て足れりとす或は佛國に掛念せんか佛國の軍力は一昨年中佛清戰爭の跡に因りて測り知る可し、當時支那海に集まりたる佛國の船艦は其の數二十餘艘と號せしが一半は運送船の類にして福州に支那艦を撃ち沈め鷄籠淡水の間に横行したるものは僅々十二三隻に過ぎず即ち此十二三隻は東洋に於ける佛國の力にして我能く之を備ふるを得ば佛國恐るるに足らざるなり或は軍艦を以て軍艦に抗するの韜畧を棄て唯敵の上陸のみを防がんとせば水雷火船を沿海要衝の地に裝置し敵來らば伏雷を一時に躍らすの工風こそ肝要なれ我政府は今の海軍政略に於て果して何れの方向を取る可きや海軍擴張の根本論として先づ此問疑を定めざる可らず盖し歐米海軍の視察に於て各國砲臺の模樣は如何、銃砲はクルツプ製を可とするや將たアームストロング製を利とするや目下歐州諸國にては最も孰を珍重するや日本の軍艦にては士官出身の模樣の異なるに由て各艦の軍紀風紀稍其趣を異にする所あり例へば甲艦にては士官の注意嚴密なるが爲め僅々三十杪時間にして其ボートを釣り上げ乙艦にては爲めに五分時間を費す抔の差別ある由なれども歐州各國の軍艦にても亦此類の差別あるや是等は孰れも海軍事務中の視察す可きものならんと雖ども此邊の調査は隨行官中自から其人ある可ければ大臣は右等器械的の事務を離れ各國軍政の大勢に就きて特に注目する所あることならん左るにても先づ我日本國の海軍畧豫め一定し居らざれば視察の區域散漫にして緊要の處に專らならず明察の人と雖ども能く其要領を得ること難し我政府にては今度西郷大臣を歐州諸國へ派遣するに就て先づ我海軍畧の大体を决定せしや否や若し未だしといふならば我輩は此决定の大臣の出發前に在らんことを希望するものなり