「朝鮮事情」
このページについて
時事新報に掲載された「朝鮮事情」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
又日本人中には金玉均の餘黨今尚ほ朝鮮政府中に殘り居るものゝ如く思ふ者あれどもこれ
は大なる間違なり抑も金玉均が明治十七年十二月に事を擧げたる其結果として遂に日本支
那朝鮮三箇國に關係の一大事を惹起したり唯其結果丈けを見れば金玉均の事を擧げたる最
初の仕組も餘程大造なるものゝ如く思はるれども其實金玉均が事を擧げたる當時の黨與と
ては僅かに四五人に過ぎず其外曾て日本に留學したる生徒等並に召使ひの奴僕までを合し
て七十人には足らざりしなりこの小勢にて大事を擧げたることなれば始終權謀術數を運ら
して他人の權勢を利用し破綻を防ぐを勉めたり事敗るゝに及んで數名の黨與は或は死し或
は遁れて一人も殘る者なし七十人の隨從者中にも死したる者多く尚ほ存命して國に在る者
は社會に對し甚だ無力なる人々のみなり加之金玉均は當時多くの人を殺したるが上に兼て
朝鮮下等人民に嫌忌せらるゝ日本人等と何か關係ありたりとの評判を立てられたるを以て
今日と爲りては上下擧りて金玉均を惡まざる者なく腹心の黨與など稱すべき者は一人もな
きなり又金玉均が三日天下の時當時支那に幽囚せられ居たる大院君を迎へ還すの議を發し
たるを以て大院君黨は大にこれをコとし今に至るまで金玉均を喜ぶ者多しとの風説專ら日
本人中に流行すれども朝鮮人中には官民共に絶えて左樣の説を作す者なし小生も度々朝鮮
人に對して此事を質問したれども一向に知る人なく多くは左樣の話は始めて承りたりとて
驚く者のみなり京城人にして既に斯の如し所謂大院君黨と稱する者は皆田舎に居る人なり
爭で田舎人にして斯る事を知る者あらんや既に其事を知らざれば爭で又金玉均をコとしこ
れに心を寄する者あらんや此風説の言ふ所恐らくは虚ならん併しながら何か別に偶然の事
情ありて大院君黨が金玉均を慕ふは實事なりとせんか左るにても金玉均の身に取りて何も
利する所なかるべし何となれば大院君黨と稱する者は實に無力の一派にして殆んど影も形
もなき程のものなればなり唯大院君の未だ支那より歸り來らざる前には人民中現政府に對
して不平を抱く者は大院君の歸國を待てこれを戴き爲すことあらんとする状態ありしとい
へども既に歸國せし後は忽ち閔氏一族の權勢に壓倒せられて手も足も出すこと能はず大院
君及び其親友數名は別居孤棲して一切外人と通ずることを許されず以來人民も亦大院君を
戴くなどの事は到底行はれざる事と觀念したるが如し且つ大院君をして老衰世事に望なか
らしむるものとせんか全く爰に論ずるの用なし或は尚ほ一度閔氏を倒すの志望ある者とせ
んか君は何爲れぞ昔日の如き攘夷論を唱へて人望を維ぐの工風を求めざるや在昔君が攝政
十年の間に人望を失ひ盡し遂に閔氏の爲めに政權を奪はれたりといへども尚ほ能く明治十
五年の乱を煽動するの力ありし所以は唯君が大に攘夷論を唱へて閔氏の洋狂を國中に吹聽
したるが爲めのみ今日にても所謂大院君黨と稱するものは忠清道全羅道地方に在る南人黨
即ち攘夷黨の事を云ふなり然るに去年君が支那より歸國するや君子豹變攘夷主義を廢して
開明主義を主張し各國公使等と親密に往來するなど一見南人黨をして失望落膽せしめ遂に
君を見棄るに至らしめたり君にして若し大望あらば何ぞ一たび志を得るの後に變説せざる
や今更君の一身の爲めに謀りて遺憾至極の事と云はざるを得ず盖し朝鮮人民は秩序なく定
見なく一人起て乱を唱ふれば萬人これに應ずること響の聲に於けるが如き性質あれども必
ず英雄の使嗾を待て運動し一人自から事を企るの氣力ある者なし平日は何程の壓制虐待に
遇ふとも耐忍謹愼して决して動搖不平の色を現はす者なし明治十五年及び十七年兩度の變
乱に徴して明かにこれを見るべし小生の所見にては今後若し事を擧ぐる者あらば其首唱者
は大院君にあらず京城の士人にあらず恐らくば地方の士人ならんとの見込なり
閔氏の一族即ち現今の朝鮮政府が大に勢力ある次第を記さんに今より七八年以前に大院君
を押込めて其政權を奪ひしも閔氏なり明治十五年及び十七年両度の變乱を鎭めて遂に其政
權を失はざりしも閔氏なり今の權柄を握る者も亦閔氏なり斯く閔氏は始終無上の權勢あり
といへども同族中常に相善からず近時の例を擧げんに閔泳翊閔應植互に相容れず去年の夏
閔泳翊支那に赴くの後に及んで閔應植始めて勢道(事實の執權)と爲れり然るに又爰に明
治十五年の乱に大院君の爲めに殺されたる閔謙鎬の嫡子に閔泳煥といふ人あり本年廿六歳
の若者なり頃日閔應植と勢道を爭ひて今はこれに駕するの實力あり斯の如く閔氏は外は外
國の交際を維持し内は衆人の不平を鎭壓するの地位に在れども一族中相和せずして互に政
權を爭ひ甲の政策は乙これを妨げ乙の政策は丙これを妨げ明治十七年金玉均の變乱以來既
に一年餘の日月を閲したれども未だ政治上に一事の改革を爲さず社會に對して一事開明の
進路を示したることなし是れ即ち風聲鶴唳に驚かされ支那人に瞞着せられ不外聞とは知り
ながらも身を大國に托して自から一時の安を偸む所以なり左れば今朝鮮國内には政事上の
黨與なし黨與なくして閔氏を刺衝し或はこれに代はらんとする程の憂患なきがゆえ自然閔
氏も同族の嫉妬喧嘩に日を暮らして絶て政事上の改良に意を用ることなく國歩の艱難を憂
ることなし世の朝鮮の事を論ずる者動もすれば國内に政事上の黨與あるが如く思ひ又これ
がために内乱の起らんことを心配する者あれども全く朝鮮の事情に不案内なる者の臆測な
り今の朝鮮の患は黨與の爭にあらず内乱に非ずして唯永く今の儘に閔氏の一族が政權を握
り因循姑息斷然の所置なく今は支那に依り後は魯西亞に頼り幾年の後遂に東洋亡國の仲間
に加入せんとするに在るのみ實に気の毒の至りなり(畢)