「日本國の鐵道事業 一」
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時事新報に掲載された「日本國の鐵道事業 一」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本國の鐵道事業 一
日本の鉄道事業は十五年間に二十英里宛の進歩なり
文明の國には鐵道無かる可らず鐵道の長きは文明の長きものにして文明の短きは乃ち鐵道の短き者なるを今改めて言ふに及ばず且つこの鐵道の長短は獨りその國文明の長と短とを表するのみならずして更に其文明進歩の遲速をも表するの實あるに因り先づ某國の事に就き、その文化の程度は如何ん又開明進歩の足取は如何んとの疑問起るときは第一着に其國鐵道事業の長短遲速を論じて次にその文明に評を下すとも事の大体に於ては決して誤りなかるべきなり素より社會人事の多樣なる、箇の鐵道の外にまた幾多の文明器具ありて國の進歩を助け世の開明を増すの功多きは蔽ふ可らざるの明白事なれども然れども直接に其文明を表示して實際に遠からざる者は正しく其國の鐵道事業たるを文明諸邦人の定論として之を許すも亦不可を見ざるなり
我日本國にて鉄道事業の第一紀元とも稱すべきは去る明治五年六月の事にて東京横濱間に十八英里の鉄道落成を告げ尋で同十年二月神戸大坂間并びに大坂西京間の鉄道開業式あり此線路の全長四十七英里なりその後三年にして同十二年の末に西京大津間十英里の鉄道成りその後尋で敦賀より長濱を經て大垣に達するもの四十九英里成る、以上の線路與に官設に係る者にて尤も右の外に目下着手中なる中山道鉄道の内高崎より横川に至る十八英里の線路は昨年十月に成り尚ほ其他追々竣工の部分を限り旅客の往復を許す都合となるも近き内にあることならんとは思へども單に其成迹より論ずれば官設の鉄道事業明治五年の第一紀元より起算して今十九年に至る出入り十五箇年の間に僅々一百四十二英里の落成を見たるの次第、文明の進歩に照して甚だ遲緩なりと評せざるを得ざるなり右の外に北海道小樽港より幌内炭山に至る五十六英里の鉄道は同く官設にしてこの線路の開通は去る明治十五年の事なればこれをも右の全線路中に加算し、而して此十五年來官設鉄道の工事年に纔か十三英里の捗取なりと云ふに至りては我輩大に國の爲めに歎息の思ひを爲すなり又次に民設に係るものに就て論ずるに日本鉄道會社は去る明治十四年の十一月を以て日本政府より東京青森間鉄道架設の特許條約を請受けて越て明治十六年の七月始て上野熊谷間に運輸の業を開き夫れより本年に至るまで足懸け四箇年の間に開通したる線路を問ふに第一區、東京の上野より前橋に達する六十八英里の一線路、東京の品川より赤羽に達する十三英里の一線路、第二區中大宮宇都宮間四十八英里の一線路以上三線合せて一百十九英里に過ぎず今仮り同鉄道會社の成立を明治十五年の一月に在りたるものと看傚し之を昨十八年の十二月限りに計算するに即ち滿四年の星霜を經過したるその間に同會社鉄道事業の捗取は一年僅に三十英里に過ぎず遲緩と云ふも亦愚かなる次第にして歸する所は日本文明の進歩、道草をしつつある者と評するの外は無からん此他私立鉄道會社にて汽車の往復を始めたるものは大坂堺間の鉄道會社が昨年十二月大坂大和川の間に僅々四英里の線路を開きたるまでにして目下我國の鉄道と云ふときは第一に官設の線路第二に日本鉄道會社の線路第三に坂堺鉄道會社の線路以上三線合して三百廿一英里これを日本國鉄道の第一紀元たる明治五年より起算するに一箇年の出來高僅少にも廿一英里内外に過ぎず、我輩は今この二十一英里と執て歐米諸邦鉄道工事の割合に比較するを須ひず唯三千七百餘萬の人口も住みて歳入七千餘萬内外の政府をも維持し將た外國の貿易に七千萬近き大金を運動する此日本帝國人民の肩書に對して甚だ以て赤面せざるを得ざるなり
日本政府が目下頻りに工事を督促しつつある中山道鉄道并に日本鉄道會社に於てこれも亦着手中なる宇都宮より白河に至る第二區線路の鉄道工事に就ては今暫らく論ぜず唯だ既往十四五箇年來の成迹より評すれば我輩は單に「緩慢極まる」と言ひ放つより他に言葉もある可らず去迚この緩慢は何の誰某の罪咎なりと云ふにも非ず到底は日本全國人民の引受くべき咎にして此一點よりすれば官も民も人も我も一樣平等の責任に當らざる可らざるなり鐵道の工事、一日後るる時は今の文明世界に在りては日本國永遠一日の利を失ふものにして二日後るる時は又永遠に二日の利を失ひ要するに半日片時にても先きに進みたるの駟馬は後より進みて之を追越すこと能はざるが今の文明の大勢なれば若し我日本國の鐵道工事をして既往年々二十英里の其代りに更に之を十倍して二百里宛の落成を見しものとせば今頃は此日本の文化推進も遙か此明治十九年今日の現状に立優り居ること疑ひなきなり或は世の論者中には日本は新開國なり幼稚國なり一年二百里は愚か、その半數四半數の線路にても思ひも寄らぬ大工事なり迚も成功を望むべきに非ずとて寧ろ我輩の論旨を激なりと言はるる人もあらんかなれども其激ならざるを證せんが爲めに次に西洋諸國鐵道あつてより以來の状况を述べ之を十五年間に二十英里宛の緩慢工事を看し我日本人の心に訴へて其長短の如何を判ぜんと欲するなり(未完)