「日本國の鐵道事業  十五」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「日本國の鐵道事業  十五」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

既成三百英里の爲めに前途幾千里の鐵道工事を枉ぐるは非なり

文明立國の大事業に覺悟なきもの其膽豆のごとくにして與に文明を談ずるに足らず我輩が今爰に日本現在の鐵道三百英里を悉く廣軌道に改ため且つ後來新に敷設すべき幾千里鐵道線路をも擧て本位軌道となる其大計を定むべしといふに於ては世の論者中には不服を唱へ此に三百英里さへも十五年來幾多の費用と幾多の艱苦を經て折角に經營せしものなるを、無法にも一朝軌道變更の業に着手すべしとは言甚だ唐突にして紙上の空談固より實際には行ひ難し好しその言ふ所廣狹兩道の比較に至りては廣軌道は一般文明國の鐵道にしてその利uの多きことも全く蔽ふべきにあらざれども何を言ふも今日まで仕上げ來りし三百英里の狹軌道を一旦俄然變革なすべしといふに至りては餘りと云へば無法にて到底亂暴の説なりなど或は申し唱ふる人のあらんも知れず乍去我輩は決して無法談をなさず又亂暴説を吐かず着々これを西洋の事例實跡に徴するに或る一國にて始めは狹軌道を用ひしに交通運輸の活溌なる世界となりては何分にも間に合ひ兼ぬる處より急にこれを改築して廣軌道となしたるの例し甚だ尠からず又實際より見るも新に線路を撰んでこれに鐵道を布くよりも從來有り來りたる三尺六寸餘の軌道を改めて四尺八寸餘に廣ぐる丈なればその費用の廉にして工事の容易なること固より論を要せざるなり但し斯くなる上は機關車客車等これに應じて車輪その外にも多少の變更を爲すべきは勿論なれども去迚これも少し許りの修繕にて事

濟むべく行々しく騷ぐには及ばぬ事なり我輩は日本現在の鐵道三百英里を廣軌道に變更するの無造作を證せん爲め一昨年發兌のアンニユアル スタチスチシアン と題する書中より左の項を拔記して讀者の閲を乞はんとするなり

今を距る七年前(明治十九年より)即ち千八百七十九年六月二十八日の事なり米國ミスソオリー州アイヨン マウンテン鐵道の線路七百英里がこれまで狹軌道なり志處不キ合なりとて一日の中に至急三千人の人夫を使役して悉くこれを本位軌道(即ち通例に言ふ廣軌道)に築き替へ七百英里間の鐵道僅か一日の休業にてその翌日より直ちに廣軌道線路の往復を開きたり云々

又右の工事ありし翌年即ち千八百八十年六月二十二日の事なりニウヨーク ペンシルヴァニヤ エンド オハヨ鐵道會社に於てその線路二百二十五英里の大廣道を本位軌道に變更するため午前三時より同九時三十分まで即ち滿六時間半に二千五百人の人夫を役して悉くその工事を畢へたりとなり

右の例に就て考ふるに甲は七百英里を三千の人夫にて一日の中に改築し、乙は二百二十五英里と二千五百人の人夫にて僅か六時間半の間に架換へたりといふ次第にして小膽の人に取りては或は驚くべきの報なるに似たれども西洋ゥ國に在ては此等の事例は毎々有り勝ちの談にして少しも怪しむに足らず唯その報を聞て怪む彼の小膽人を見てこそ却て怪志くは思ふべきのみ左れば日本現在の線路を改めて廣軌道となす業の如きは米國人より見れば眞に一夜間の小内職にして又何の勞苦もなからん然るを日本人が小膽にも區々三百英里の既成線路に愛着戀繋して此帝國永遠の大計を誤るが如きは我が本心に對しても亦た甚だ赤面に堪へざる次第ならんのみ

文明國の鐵道と未開國の鐵道とは異なる所無かる可らず荷物のみを運送する鐵道と荷物旅客兩つながら之を運送する鐵道と又相違あるを要するなり文明國に於ては鐵道を以て通常荷物旅客の便に供するの外更に兵事上の目的にて戰卒輜重をも搭載せざる可らず即ち文明國の鐵道は邦國社會のために種々雜多なる利用に供する者にして或る時は嚴然たる紳士行客を乘せ或る時は疎大なる雜貨貨物を積み又時として牛馬大砲等を搭載すべき者なるに若し狹軌鐵道ならんには其利用局部に偏して全体には通じ難く即ち甲の用には立てども乙の用には立ち難く、乙の用は又漸くにして辯ずることを得れども丙の用には一切役立たざることあり例へば平時の運搬ならば長さ十數間に渉る條鐵材木の類は狹軌道の荷車にて積み切れざるべく又或は戰時に際し至急に馬を送り大砲を積む等の場合あれば狹軌道の荷車にては手間も取り、間にも合はず不便甚はだ多かるべきなり就中牛馬の運送に於て實際の損失ありといふは廣軌道の荷車なるときは例へば牛馬の頭と尾と相接せしめて車中の空地を少くし四ツ目格子の位置に併ばせ置くとを得るが爰に一輛の車中に幾個の大動物を搭じて空しく餘地を殘さずと雖ども狹軌道の荷車なるときはこの四ツ目格子の併べ方も行はれ難くして一輛僅かに二匹三匹を積むに止まり車中に明地を存する等の事は實際見易きの例證なり左れば鑛山用の鐵道の如きはその所有主として鑛物の一種のみを積出すに在る事ゆえ狹軌道にても差支へなし現に支那開平鑛山の鐵道、日本にて釜石鑛山の鐵道(今の大坂堺間の鐵道即ち是なり)などはこの狹軌道にてキ合も好きならんかなれども我輩が爰に大に怪む所は最初、帝國第一の要港と帝國の帝キたる此東京を繋ぎたる京濱間の鐵道を何故あって狹軌道に築成したるか若し當時外人の考へにて日本は未開國ゆえ乃ち未開國相應の狹軌鐵道を布設して然らんと云ふ議より事こゝに出でしものかその邊の處も我輩今日となりてこれを知らず又之を知るを欲せずと雖ども唯冀ふ所は今日以後日本の鐵道は廣軌道に一定して文明永遠の基礎を確むるの一事に在るなり(未完)