「日本國の鐵道事業 十六」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本國の鐵道事業 十六」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

米國の鐵道は決して危險ならず

米國は世界中にて鐵道建築費の最も廉價なる國なれば日本國の鐵道事業もこれを米國に則るべしとてその事實理由を陳述したる傍らに餘談鐵道軌條の廣狹論に渉りて日本國の鐵道線路は須らく今に及んで廣軌道に改築するの大英斷を決行すべしと論告したる所なりしが今や談再たび本條に戻り、實に前記の如く米國鐵道工費の廉なるは爭ふ可らざるの事實なれども世の諺にも安物買ひの錢失ひとあり徒に建築費の廉なるにのみ眩迷して疎末なる鐵道軌條を布き又は軟弱なる機關車客車を運轉し爲めに列車の破裂エ出等を引起し可惜人間の生命を損ふ不幸あらんも測られず是れ大に勘考すべき點にして米國の鐵道如何に廉とは云へ浮かとは模し難しとする人あらんも知らず然れども我輩は今日まで米國の鐵道にのみ限り怪我即死の多かりし例をも聞かず、よし又讓りて此れ等の變の多しとするも百千萬人中の一二人が文明の利器の爲めに不幸なる犧牲者たるも社會進化の大法、邦國文明の達觀よりして視るときは素より以て憂ふるに足らざるなり然れども惻隱は仁の端にして世界の人の口の端は兔角に鐵道死傷の事を喋々し中には米國の鐵道は他のゥ點に於ては一箇の申條も無けれども死人怪我人の多きは畢竟その鐵道建築の疎末なる咎にして決して摸すべきものにはあらずなど暗に米國鐵道を傷けんとする者あれば世間一般の人も亦これに同じ事實總計の比較何如とも探らず但漫然と米國鐵道には怪我多しと一概に吹聽せられて迷惑を蒙る廉なきにも非ずと雖どもこれ徒に世人の惻隱心を利しその虚に乘して米國鐵道の實体實用を蔽はんとするものなり然れども事實の明光は以て遮る可らず苟も米國鐵道に限り特別に死傷多しと云ふ證左もあらば我輩は斯る言論の爲めに英國鐵道の利の堙滅せざらんことを企圖して已まざるなり我輩は更に一歩を進め英米二國既往六箇年間の鐵道死傷者を對比して二三の意見を附記し日本の鐵道を米國風にするも決して實際の恐れなき次第を示さん

既往六箇年間英國に於て鐵道死傷者の全數

一八七九 死者ノ數 五三七 傷者ノ數 二、五六六 死傷合計數 三、〇九三

一八八〇 同    五七五 同    二、九八四 同     三、五九九

一八八一 同    五四四 同    三、四三一 同     三、九七五

一八八二 同    五七一 同    三、三七九 同     三、九五〇

一八八三 同    五六五 同    三、一一二 同     三、六七七

一八八四 同    五七七 同    三、一八三 同     三、七六〇

同年間米國に於て鐵道死傷者の全數

一八七九 死者ノ數 一八五 傷者ノ數   七〇九 死傷合計數   七九四

一八八〇 同    三一五 同    一、一七二 同     一、四八七

一八八一 同    四一四 同    一、五九七 同     二、〇一一

一八八二 同    三八〇 同    一、五八八 同     一、九六八

一八八三 同    四七三 同    一、九一〇 同     二、三八三

一八八四 同    三八九 同    一、七六〇 同     二、一四九

右の中第一表は昨明治十八年八月二十九日の倫敦經濟雜誌に據り又第二表は同二月十三日の紐育發兌鐵道雜誌の統計を基にしたるものにして死傷者とあるは通常旅客竝に鐵道役夫の死傷を併せ稱したるなり今この表中互に誤算これなしとせば英國の鐵道死傷者は毎年平均三千六百六十九人、米國は同く一千七百九十九人の計算にして米國の鐵道延長は大數英國の六倍以上(英の鐵道一萬八千六百餘里、米の鐵道十二萬八千四百餘里)なるにも拘はらずその死傷者は却って英國の半數にも下るとせば論者が米國の鐵道を危險多しとなすは何を證左になしたるものか我輩に於て頓とこれを解する能はざるのみならず前記の統計に若し大相違もあらずとせば凡そ世界中に米國の鐵道ほど工費廉にして危險少なき鐵道なしとまで斷言するを憚らざるなり何となれば概算英國鐵道の建築費は米國鐵道の四倍にしてその危險死傷の度は却て逆にこれに二倍なればなり乍去この上に米國の爲めに謀りて議論の均重を取らんとならばこれを塩ァなる線路の延長、竝に列車の經過したる延長里數(例へば十里間の鐵道を一箇年中一百回の列車が通過したるものとせばこの延長里數は一千里なり)人口及び旅客の數、毎人一箇年中乘車の危險を犯すその度數等にまで照し合せて逐一明細の計算を解きたる上更に新に開業したる鐵道線路は舊線路に對して列車エ出、軌條破綻の虞の多きこと、或は新線路に於ては不熟練なる機關手ありて避け得べき衝突をも避け得ずして大怪我を出來せしむること、鐵道營業の繁閑大小にて變事の有無多少にも關係を及ぼすこと等を參考せば米國の鐵道に辨護となるの議論を得るに疑ある可らず現に或る米人が米國鐵道の危險は英國鐵道よりも寡少なるを證するためこれ等の對照を試みたることもあり今爰にこれを登記するは我輩の辭せざる所なれとも悉く書を信せば書なきに若かず單に統計數量の表面をのみ妄信して即案を下し英國の鐵道は米國の鐵道よりも斯く斯くの危險あり衝突ありとて之を識ゆるが如きは却て識者の笑を招く次第にして且つは我輩の拐~も故さらに米國鐵道の無難を證し其安全を保險する者にもあらず、事實英米兩國の鐵道にも正に同一樣の危險ありと見做されても差支あることなし唯世の論者中に廉價なる米國鐵道はその廉なることに危險多しとて漠然の申し唱へより遂に米國鐵道の實体を傷つくるあらんを恐れ序でながら之れを記して讀者の安心を求めんと欲するのみ(未完)