「東京改造の規摸は大なる可し」
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本文
東京改造の規摸は大なる可し
我政府にては明治二十三年を期して國會を開き亞細亞博覽會を開くに就き曩きに臨時建築
局を置きて諸官衙及び議院建築の事を擔當せしめ博覽会會塲も有司の手を經て追て新築に
着手の都合、目下御造營中の皇居宮闕も遠からず輪奐の美を大成するとならん又東京市區
改正の擧は故府知事松田氏に始まり芳川氏に中し遂に渡邊氏に終るならんと期したりしに
今度高崎氏の新府知事たるあり新知事施政の方向は就任匇々の今日未だ判知す可らずと雖
も市區改正の事に至ては盖し亦舊令尹の緒を繼ぎて之を全うするの責に任ずるとならん左
れど今より四五年の後には議院諸官衙巍然として成り皇城雲に聳えて博覽會塲は目を驚か
し市區の模樣も亦大に改まりて東京は復た舊東京に非ず宛然一個の新東京を現出するとな
らん即ち今日土木の責に任じて此東京を改造せんとするものは未來の大計を想ふて成る可
く其規摸を大にし目前の小不都合を顧慮して其局量を縮めず一時の毀譽を恐れて故らに節
儉を旨とし悔を後世に遺すことなきの覺悟こそ肝要なれ今を去ること二十餘年前ナポレヲ
ン第三世の佛國を支配するに當り巴里府の知事にオスマン氏なるものあり時の大政府と協
力して巴里府改造の事に着手しリボリ、セバストボールの両大道を一線に打通し此大道よ
り東にマジヤンター、ブレンウージエーン、バンセンヌ、マザー等の街衢を開き西にボー
ジヨン、エトワールの両街を通じ十二の小街をして此エトワール街に集まらしめルーブル
柱殿、府廳、パレー ロヤル、センジヤツク塔等を遶りて一切の人家雜物を取拂ひボアー
ド ブーローニユ公園(此邊紳士の群居する所)モンソー公園、ボアー ド パンセンヌ
公園、ビユツト シヨーモン公園(此邊商工の群居する所)を改築し英國倫敦の例に傚ひ
巴里府の中央に方形公園を作り土石を以てセンマルタンの溝渠を蔽ひ其上に樹木を植ゑ街
路及び公園を搆へ中央市塲、噴水殿を新築し兵營病院寺院劇塲を夫れ夫れ一處に引き集め
千八百六十七年には萬國大博覽會を起し其屋宇品類の盛大なる時人は之を博覽會と稱せず
して一個の世界と呼び做したる程にて僅々數年の其間に巴里の光景を一新しさりオスマン
氏の事業は斯く甚だ偉大なりしかども當時の評判に據れば氏は私行に於て欠くる所あり或
は新造の市街線路に當りて豫め土地家屋を購入し他價の騰貴を待て之を官府に賣りしとも
ありし由にて當時巴里に或る新聞に此趣を諷したる一話ありオスマン氏の夫人一夕或る宴
會に出席して某貴婦人と談話の折、貴婦人はオスマン夫人に向ひ、承はればオスマン知事
には處々に御邸を購ひ入れらるゝやの趣なれば中には定めてよきお住居も候はんと述べけ
るにオスマン夫人は何氣なく手前共にて購ひ入るゝ邸宅は折惡しく毎度官の御買上げと爲
り新規の宅へは未だ一度も移りたることなく誠に殘念なり云々と答へたりとあり即ちオス
マン氏が巴里改造の其際に時人の批評と招きたる所以なれども氏の氣宇洪濶にして土木經
營皆な之を萬世に傳ふるを期し事功成りて巴里府の壯觀を添るに至りては歴史家皆な其規
摸の大なるを稱賛せり今や臨時建築局には井上外務大臣の總裁たるあり新府知事高崎氏も
盖し大に市區改正の計畫に任ずるとならん此等の諸氏は孰れも新東京を造出するの局に當
るものにして其平生より推すときは規摸計畫の小に失せざるや言を俟さず彼のオスマン氏
の短所を避けて獨り其所長を學び日本國の首府たる東京の觀を新にし後の歴史家として其
規摸の大なるを稱賛せしむるが如きと盖し諸氏の優に爲す所ならん兎角此度東京の諸大工
事に就ては我輩は當局者の規摸の成る可き丈け大ならんことを希望して已まざるなり