「東京市民の肉食法」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「東京市民の肉食法」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

東京市民の肉食法

現時社會の事物改良すべきもの極めて夥多なりと雖も中に就て最も緊要に且つ最も着手に

故障少なきものゝ一は日本國民の食物なり今の如く三度の食事が無味なる野菜と淡泊なる

二三の魚肉の類より成る状態にては我國民の身体精神両つながら活溌偉大なるべきの道理

無く轉た倍々萎縮して無氣無力の矮小人種たるべきは數百年來の實驗に照して誠に見易き

次第なり三軍に士枯腹して戰塲に飢餓に泣く間は陣に臨んで勝を制すること難し十九世紀

の文明世界は恰も宇内共有の戰塲にして勝つものは榮え負るものは衰ふ、盛衰榮枯の理の

明瞭なる鏡に懸て物影を視るが如し左れば我輩日本國民にして苟めにも國を開て西洋諸國

と同じ文明の戰塲に比肩獨立の顔色を立てんと云ふ決心もあらば先づ手始にこの戰塲に臨

むべきその人々の身心を健固快活にして決して飢餓贏頽に悩むやうの事なきを期せざる可

らず即ち是れ日本國民食物改良の必要なる所以にして簡短にこれを言へば菜食を變じて肉

食となさゞる限りは彼の文明世界の戰塲に繰出すべき日本人士が勝算を見ることは所詮覺

束なきことならん

肉食を盛んにするの要は右の如く誠に尤の道理なれども爰に途に横はるの困難事ありと申

すと肉の價の極て不廉なる一條なり目下東京府下の小賣相塲に積りて中等一片の牛肉値段

平均十八錢内外なりこの値段にて毎人若し日に半斤宛の肉を喰ふとせば一箇月の牛肉代價

二圓七十錢に上る勘定なるが月に二圓七十錢とは中等社會以下の人が毎月平均の生活費と

しても尚ほ餘剰あるべき金額たるに若し少しく文明の風を氣取り、敢て肉食の民たらんと

欲せば一身一箇月の生活費を擧げて牛肉代に奉ずるとも尚を不足を感ずべきの次第なれば

到底今の儘の有樣にて東京市民に肉食を促がすことは我輩に於ても大に憚りあるを免れず

何となれば如何に肉食が必要なればとて斯くも高價の牛肉を生活費の低き人々に賣らんと

するは我輩の屑とせざる所なればなり我輩窃に今の東京府下牛肉販賣の方法を聞きその價

の不廉を致すも實に已み難き情實あるを知るなり牛一頭を屠れば平均肉量三百五十斤を獲

らるゝものと計算し目下問屋間の賣買値段は上等肉百斤に付五圓五十錢乃至六圓、中等肉

同く五圓、下等肉同く四圓内外の相塲なる由に聞けば中等肉の價は一斤平均五錢に當る割

合なるに偖右の問屋がこれを市塲に賣出して彌々消費者の手に渡すまでにも元價五錢の中

等肉が忽ち騰貴して十八錢即ち三倍以上乃至四倍にも埀んとす畢竟何故あつて元價と賣價

との間に斯る大相違を出來せしむるやと問ふにこれには他に種々の小因もあることならん

なれども其大体、現時府下にある牛肉の大問屋ともいふべきもの凡そ二十軒許りありて此

等の仲間一手申合の上、一の規約を設け地方の牧畜家が其牛羊を東京へ持出すあるに當り

ては右の大問屋に於てこれが販賣方を引受け然る後これを屠殺して夫々小賣人に渡すその

仕組は完全なるに似されども府下の大問屋と地方の牧業者との間が兎角背中合せに擦れ合

ひてその取引圓滑ならず時としては府下の問屋中互に申合せて牧業者の代物を低價に値蹈

し聽かざるときは相聯合して其代物を引取らず二月も三月も賣買の約定を結ばずして言

はゞ牧業者をなぶり殺しになし牧業者として金には究し、時月は立ちて致し方なく去迚

遙々この東京へ牽來りしその動物を又も費用を掛けて田舎まで牽返すといふ譯にも徃かず

九十九計爰に盡き果て一計漸く牛羊を捨賣にして歸郷せしめんとし亦牧業者は最初牛羊を

賣りに東京に出向くに際して徃く徃くは廉く負けて賣る覺悟ありとも初は先づ試にその言

價を不廉にして百中唯一の僥倖を買はんと欲する其有樣は猶ほ東京の縁日に植樹屋がその

價を五倍にし又た十倍にするが如く買客のこれを五分の一、十分の一に値切ることは兼て

覺悟の前にもあれども例の僥倖の念容易に消滅し難くして徒らにその價を二つにするの情

實もあり然れども歸する所は大問屋の仲間組合に勝利を獲れて故山に歸るを常とす斯くて

後ち東京の大問屋に於ては前記無益の戰爭に金を失ひ時を費し隨て牛肉の賣値を引揚げ以

てその損失を償はんとするに至る是れ元價五錢の牛肉が市塲に現はれて十八錢の高價に化

ける所以なりと聞けり尤も元價よりも三倍乃至四倍に其品を賣るは實際の實費已む可らざ

る次第あつて然るものか或は左迄高價に賣らずして例へば中等肉一片を今の十八錢の代り

に十錢位(これにても尚ほ元價の二倍なり)に販賣しても問屋に相應の利潤あるものなる

か夫迄の處は我輩局外者に於く事の肯綮を窺ひ得る能はずと雖ども消費者たる位置よりし

て望むときは第一に地方牧業者と府下大問屋との間柄を圓滑にし第二に府下賣捌の現法を

改新し更に廉價に牛肉を販賣して我々の便益と爲る方策もあらば我々は復た今よりも消費

の額を五倍にし十倍にして牧業者並に問屋その人にも十分の利潤報酬を與ふるを吝まざる

べし