「日本國の鉄道事業 二十一」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本國の鉄道事業 二十一」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

乗客の種類と乗車の目的とは千變萬化なり

文明世界の人事交通は極めて繁雜なるものなり鉄道の便を利して往來するの人は多種多樣、老あり少あり官吏商人書生職工その他社會に生活する人間はあるとあらゆるもの皆な鉄道に乗らざるなし然してこれに乗るの目的は遊山見物の爲めもあり商賣取引の爲もあり書生は學校通學に官吏は官廳出勤にその外、人に依り時に因りて樣々の目的より鉄道を利用すること文明社會の人の常道なれば鉄道會社たるものは官立たり私設たるに論なく唯務めて乗客の便を計り商人の爲めには商人の利uを與へ、農民のためには農民の利uを與へ乗客の種類と乗車の目的とを見計らひて巧みにこれに投應し千人千樣の待遇に決して畫一の法を以てこの人を概すべからざるなり然るに日本鉄道の乗車切手發行法を見るに尚ほ注意の不足する所甚だ多し東京横濱間の官設鉄道に就てこれを云はんに切手の種類は第一上中下三等の通常片道切手、第二上中の二等を限り一日丈の往復切手第三同じく上中二等を限り一箇月三箇月六箇月及び十二箇月の四種の定期乗車券第四川崎大師の縁日等を限りて臨時に發行する一日限り通用の下等往復切手以上數種の外に有ることなし甚だ不十分なるものといはざるを得ざるなり盖し此不十分不完全は日本國中に鉄道事業の尚ほ振はざる結果なれば他に致し方もなけれども追て此日本が鉄道國となる頃にはこれと同時に乗車切手の種類方法とも樣々に改良して各種旅客の便に應ずるの道を設くること必要たるなり現在西洋諸邦の中に在りても乗車切手の法の整頓したるは米國なること論を待たず今その二三例を掲げんに米國鉄道切手の種類は既に日本に行はれ居る各種のその外に或は乗數切手なる者ありて甲乙の兩停車塲間、豫め乗客の旅行數を計り五回十回若くは五十回と夫々回數を定めて乗客の便宜に應じ或は理數来てなるものありて一定の期限を定めず又乗用の度數を限らず但五百里なり一千里なりの豫定里數を仮算してこれが切手を渡し其乗車里數の盡るを待てその用を終へしめ或は遊覧切手とて旅客の爲め各地漫遊の便利を與へ或は車掌切手とて無切手乗車の人のため車中にて切手を賣りその外途上滯在を望む者あればこれに滯在切手を與へ學校通學の生徒なればこれに學生切手を渡し、移住民切手は貧民職工の爲めに出稼の便路を供し、組合線路切手は各地各社一々切手を買ふの面倒を省きその他旅客の種類乗車の目的に應じて種々多樣の切手を發行することなるが就中手荷物切手は米國特有の便法にして鉄道世界に有名のものなれば爰に聊か其要を述ぶべし盖し英國風に摸したる日本現行の鉄道に於ても責めて手荷物切手の一法丈は之を米國風に摸するの利u極て多ければなり昨年八月發兌の米國雜誌 ハーパース マガジーンに左の一節あり

米國人が初て英國を旅行して第一に不便を感ずるものは手荷物切手法の行はれざる一事なり若しこれが米國なれば旅客先づ市中各所にある切手賣渡所のその一つに到り何の列車にて何處に赴くとの次第を告ぐれば其列車は何時に出發するものなれば手荷物は何時までに該停車塲の掛員に渡されて然るべしとまで丁寧なる助言を受け軈てその時刻に至れば手荷物管理の人は眞鍮の小札比翼製のもの一枚を旅客に與ふ旅客はこの一枚を受け取り其儘客車に乗り込み漸く到着地の停車塲に到らんとする頃にもなれば掛の役員車中を通りながら旅客に手荷物受取りの注意を與へ若し又旅客の注文とあれば孰れの旅舘なるかその宿所を聞質して一應旅客より切手を收め更に符票番號を記し受取證を旅客に渡して手荷物の届方を引受け呉るゝなり因て旅客は單身車を下り旅舘を指してそれに投じ待つこと一時間も立てば一切の手荷物難なくして旅舘に達す又旅客は便宜にて己れと興に手荷物を携帶して去らんと望む塲合には切手を旅舘より停車塲へ出張の手代に示して其受取方を扱はしむべし左すれば旅客は一指をも勞せずして手荷物は直に旅舘に到來するなり然るに英國には絶えて斯る便法無く又これに類似の方法さへあらず畢竟此手荷物切手法は米人に取りては實に旅行中の最大快樂の一たるものなれども一たび米國の地を離るれば不幸にもその快樂を奪はるゝを免れず(中略)倫敦の停車塲に於ては旅客の手荷物は列車の停止と同時にこれを廣塲に投放すが故に上下顛倒、大乱雜に堆積するその所を各旅客は互に先を爭ひ我勝ちに我手荷物を撰り出さんと欲して押合ひ揉合ひ非常の混雜を極むるは好しとしても中に狡猾者ありてその混雜の紛に態と他人の手荷物を拐帶し去るも決して之を防ぐの途あらざるなり公衆の便宜と保護とには兼ねて慇懃なる米國人のことゆえ英國に往て斯る不始末に逢ふときは大に憤懣して英國旅行の法の尚ほ未開草昧なるを罵詈せざるはなきなり云々

以上略記する如く米國の鉄道は旅客の爲め快樂便利一として具備せざるなく一口に言へば麻姑掻痒の妙所に達したるものなれば今後日本の鉄道を盛んにするに付けても切手發行の法亦これに摸して最も精選を致さゞる可らざるなり(未完)