「日本国の鉄道事業 二十二」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本国の鉄道事業 二十二」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

客車の製は米國鉄道のもの便利なり

米國鉄道の客車は英國若くは日本現行の客車とはその趣を異にし客車と客車の間の徃來自由にして列車全長の端より端へ掛け車掌その他の役員汽車の運轉最中に來往し得て旅客の便を爲すこと尠なからず英國風の鉄道客車なれば毎車の入口をば車掌外より來りて堅く鎖鑰を閉ざし車の進行中は旅客は恰も檻倉に幽閉せられたるの思なきに非ず尤もそれは下等客車に付ての談なれども兎に角に乗客に取りては苦痛不愉快の一たるを免れず何故斯くは幽閉同然に鎖鑰を堅くするやと云ふに通常旅客は動もすれば先を急ぐ列車運行の未だ止まらざる間に既に到来の停車塲を見て叨に飛下する等より怪我負傷の沙汰多しとの情實もあり旁々出入口の鍵を嚴重にし列車運轉の全く静まらざる限りはその幽閉を免さざること誠に已み難き次第なれども去迚一々の停車塲に永く時間を費し列車を停め置て乗客に一々昇降の有無を伺ふ譯にも往かず只管急を旨とし窓外の一聲その停車塲の名を呼び去て車窓の裏これに應ずるの聲を聞かざるときは該客車には下り客のなきものと看做してその儘汽關の運轉を始むる頃には曩の一聲を聞漏したる人々の漸くこれに心附きて偖は己が降下すべき停車塲は彼處にてありけるよと失望驚歎のその間に列車は既に遠く馳せ去る等の奇談は毎々我輩の聞知する所なり列車の掛員が斯く急劇一聲に呼び去るは不深切なるに似たれども去迚迅速を尚ぶの鉄道徃來に一々客車の戸を開て叮嚀慇懃に客の機嫌を伺ひ居るべき猶豫あるべからざれば是非もなき次第なり左なれども又〓の一方より理窟を附せば田舎漢には田舎漢丈の待遇をなし、不知案内者には不知案内者丈の面倒を見ることも大切なれば斯る塲合には須らく米國風の客車に摸して車中の往來を自由ならしめ偖列車が各停車塲を發する毎に掛員はその車の端より端を通し其次の停車塲の名を報道し乗客をして預め次の停車塲の名を記臆せしめ尋で列車が漸く第二停車塲に到らんとする少し以前に掛員は再たび車中を廻はりてその驛名を報告するものとせば旅客は兼てこの次には下車するとか又は其次の次までは下車するに及ばずとか夫々身搆へ心搆へを爲すの時間もありて車の上下極て便捷なれば如何なる不知案内者たりとも迂闊に降車の停車塲を忘るゝ如き不都合はなからん之を英國風の客車即ち列車運轉の全く静止するを待ちて窓戸の鎖鑰を開き下り客の有無を探ぐり、又鎖鑰を閉ぢてこれを故に復するの手數に較ぶるに停車時間も短くして事足り普通の停車塲なれば大抵一分時間の停車にて十分旅客昇降もなり稍々繁〓の停車塲にても三分乃至五分時を費せば猶豫に不足あらずと云へり又これが爲めに會社役員の手を省き隨て營業費に多少の減縮を及ぼすの利uありと申すは英國風の客車製にすれば各停車塲に餘計に掛員を分配して各車窓戸の開閉を司とらしむるの損あれども米國風なれば列車乗組の掛員丈にて十分にこの用を辧ずるを得べく好し辧ず得ざるとしても英國風ほどに各停車塲に多人數を配置するの必要なしとなり畢竟鉄道の要は少しの金を投じて多くの利を收むるに在ることゆえ苟も節し得るの費用ならば勤めて之を節すると同時に又苟も收め得るの利便もあらば大に之を收めざる可らず日本客車の製を採取するに付けてはこの邊の所も篤と當路者の考案を冀ひたきことなり

右の外に尚ほ我輩の一言したきは日本現行の鉄道客車には厠の設けなく隨て旅客の不便一方ならぬ一條なりこれも英國の鉄道流儀ゆゑ車中厠の設けなきは怪しむに足らざれども旅客の便を計れば厠だけは無くて叶はぬことならんと申すは日本の鉄道が今の東京横濱間位の短少線路に止まりて乗車時間亦僅に一時若くは二時に過ぎざるものとせば此短時間中、鉄道事業の追々擴張するに伴れ幾百里間の旅行も自在となり幾十時間引續き乗車すと云ふやうなる塲合に至らば車中に厠を設け客の便利に應ずるは最も必要の件たるべきなり既に今日にでも日本鉄道會社の上野高崎間若くは宇都宮間の線路往復に當りて乗客が右の不便を感じて已まずとのことは毎々新聞紙上にも見えて知る所なり是れ一つには乗客自身の不覺悟と申すものなれども人々自から平素の習慣等もあるものなれば一概に咎むべからず或は大小の停車塲を區別し大停車塲には停止の時間を長うして旅客にその便を與ふるの方もあらんなれども然るときは徒に汽車旅行の時間を遅緩にして鉄道の功用を殺ぐの不便あるべく孰れにも米國の例に做ひ車中厠を設くるの便利には若かざるべきなり(未完)