「肉食を盛んにすること易し 前號の續き」
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本文
肉食を盛んにすること易し 前號の續き
英國内肉類の消費額は獨り自國の産出を以てこれを償ふに足らず歐洲諸國よりは申すに及
ばず西は太西洋と渡りて亞米利加より東は印度洋太平洋を經て濠斯太利より遙々牛羊類を
英國に輸入し幾千萬里の海上近きにも旬日に跨り遠きは一二箇月を費して船舶の便に巨額
の運送費を支拂ひこれを倫敦の市塲に持出せば牛肉一斤の價十錢以上十六錢以下にして消
費者の手に入るを得べしといふに至りては倫敦は世界第一繁華の巷、物價高貴なりとの事
實にも似ずして牛肉の價は寧ろ意外にも廉なるものと評すべきなり尤も前號の紙面に記し
たる價格表は中央肉類市塲の相塲にして市中各所の小賣店に於ては右の價にて其肉を賣捌
かざる事勿論なるべけれども左れども是は其日其日に立つ中央市塲の相塲なれば小賣値段
の如きも亦これに準じ二割か一割五分の高値と見る丈に止まり决して市塲賣買十錢の牛肉
が二十錢以上にもなりて消費者の手に入るやうなる珍事あらずと云へり然るにこれに引替
へ日本の首府たる此東京の普通牛肉値段は下肉にて一斤十二錢中肉にて十八錢内外上肉に
て二十二錢ならざれば一般消費者の需めに應ずる能はずしてその元價は上等肉百斤五圓五
十錢乃至六圓、中等肉同く五圓、下等肉同じく四圓内外の相塲(此事は東京市民の肉食法
と題し四月九日の紙上にて聊か論及したることあり)なる由に聞けり斯く元價と賣價との
間に相違あるは大に怪むべきの次第にして牧畜の業に關係ある人々の話にても消費者が肉
一片に對して拂出すその金額は倫敦東京両地互に左程の懸隔は無けれども東京ほどに肉相
塲の不規律なる所はあるまじと云へり其故如何にというに原因は種々樣々なるべき中にも
第一に日本に限りて畜産賣買の市塲即ちマーケットなきが正しく主重の原因ならんと思は
る例へば日本人の常食たる米を見るべし此東京は申すに及ばず全國各地の咽喉要所には米
市塲なるものありて現物の取引の外に未來の景况を卜して限月米の相塲を立て之が爲めに
全國の米價を絶えず正當の地位に置て米の消費者に便利を與ふる其功用は决して蔽ふ可ら
ざるなり今仮に我政府が法命を布き東京米商會所に解散を命じ定期現米一切の米相塲を嚴
禁することあらんには東京市中の白米小賣相塲は其適從すべき標準を失ひ不便不規律の結
果は米價全体に騰貴して市民一般の難澁と爲るべきや毫も疑を容れざるなり米の米商會所
を要すると均しく野菜は青物市塲を要し魚類は魚市塲を要す若し此等の日用品にして其中
央市塲を失はんには消費者は價の不定不廉に苦しみ供給者は販路の逼塞市况の不明に苦し
むことならん斯の如く市塲の設けの甚だ要用なるにも拘はらず獨り畜産の一項に至りては
東京八百八街の中未だ一定中央市塲の存在するを聞かず、地方より東京に入來る牛羊豚類
は何れの地に卸賣卸買を爲し又それは賣買相塲の若干額なるや等は絶て消費者購買者の耳
朶に觸るゝこと無く只問屋等の言ふがまにまに一斤二十錢と云へば二十錢、三十錢と云へ
ば三十錢に買ひ其果して正當價なるや不正當價なるやと判定するの手段なしとは豈に法外
の談ならずやこれを白米に例せんに東京府下にて米商會所の定期米一石五圓三十錢の相塲
ならば市中の白米小賣相塲、一圓に一斗三四升を常例とすべし若し或る白米商ありて一圓
一斗に其米を賣んとすることもあらば消費者はその價の不廉を詰りて普通相塲に引直さし
むることを得べし然るに獨り肉類の一事に關しては東京は素より、日本國中孰れの地とい
へども眞正の肉類市塲なるもの無きが故消費者に於て元價と小賣相塲との關係如何を知る
能はざるも餘義なき次第と申す可きなり西洋諸國は申すまでもなし支那の如き國に至りて
も肉類市塲の設けは巖然存在して自由圓滑に賣買の法を行はれしめ米穀その他諸般の日用
品と共に其價常に正當低廉にして消費者一般の便益を爲すその秩序は見事に整頓したる者
ありと云ふ日本にても近來は肉食論頻に行はれて事實肉類の消費高も追々增加する今日な
れば西洋諸國肉類市塲の制度慣行を參酌して一の市塲規則を定め全國の要地にも各その市
塲を設けしめて肉類は價を低廉にし兼て又不規則の變動無からしむるは日本の文明を速進
する一點より評しても最も緊切ならんと思はる就中東京府下の如きは現在二十餘戸の牛肉
大問屋もありと云へば特に此等を連合せしめて東京に中央肉類市塲を設くること策の最も
行れ易きものなるべし (未完)