「活眼を開て商機の乗ずべきを見よ」
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本文
活眼を開て商機の乗ずべきを見よ
日本の人民は古來武斷専制の治下に生息したるを以て政府とさへ云へば未だ其性質を探求
するに遑あらずして先づこれを怖るべく疎んずべきものと爲し政府と視ること餓虎と一般
信ずべからず近づくべからざるものと心得たり左ればにや國民中最も多くの金錢を運轉す
る商業者及び工業者の如きは最も政府を怖れ最も政府を忌み只管政府の眼界より遠ざから
んことを勉めて爲ざる所なき有樣なりし此習俗は明治維新の後といへども容易に洗脱すべ
からず普通の人民は明治政府を視ること猶ほ徳川政府に於けるが如くし其間毫も異同ある
ことなし彼の金札の如き公債證書の如き假令其名は如何樣にても其實は皆御用金の一種な
りとして敢てこれに信を措くものなかりし殊に其事相の著しく世人の眼に映ぜしは明治十
一年政府が額面千二百五十萬圓の起業公債を募集したる時に在り此公債は明治政府は始め
て其信用を國民に試みたるものにして其結果は意外に不十分なるものなりし我輩の不十分
と稱するは此公債の全額を募集すること能はざりしと云ふ意味にはあらず公債は固より數
を盡してこれを賣り却て應募額の多きに困しみしほどなりしかなれども其應募に至るまで
の手續の甚だ困難にして所謂縣令の御説諭などいふやうなる理財の範圍外に在る種々の力
を集合して纔かに此結果を得たるが如き實跡ありしを云ふなり左れば此公債は年六分利付
にて額面百圓を八十圓にて賣出したるものなるに市塲賣買の實價は日々に下落し一時は六
十圓をくゞりたる事さへありし此時或る老練なる商人の言に政府より御用金を仰付られて
も致方なき譯なるに相當の代價を以て公債證書を買取れとの御慈悲の御沙汰に爭で違背仕
るべき併しながら元來商家と申すものは忙はしく資本を運轉し一日の油斷なく商賣取引し
て家を立つるものなれば公債證書の如き商賣取引の勞なく坐して一定の収入を得るものを
所持し居りては第一商家の本色に違うのみならず子弟を導いて遊惰安逸の風を成さしむる
其弊害擧げて云ふべからず依て金錢上の損得は兎も角も應募の公債全額を盡して證書受領
の即日に賣拂ひ價の高下を論ずべからず是即ち商人の道なりと云ひたることありし此人の
言は全く商業の理論上より説を立てたるものなれ共公債を忌むの理由中には商業の理論外
に恐らくは政府を信用せざる古臭味の元素をも幾分か含み居たるに相違なからんそは兎も
角も當時國民の氣風大抵皆斯る有樣なりしがゆゑに全國の資本家が其資本の使用法と云ふ
は唯其資本を自から運轉して商工業を營むより外に工風なく隨て時に術策の盡きたる塲合
に當ては極めて薄利なる商業又は喰〓〓の工業にても是即ち商人の道なり先祖の遺訓なり
仮令全く利を見ざるの商賣にても坐食の弊害多きには勝れりとて強ひて其商工業を維持し
たるなり故に斯る不規則奇妙なる商賣社會に在て尋常一樣十呂盤玉の勘定を根拠にして商
工の業を營まんとする眞成の有爲者は滿地の荊棘手を下だすべき所なく唯だ他の理財法則
外の現像を傍観して連呼咄々怪事と云ふの外なかりしなり
然るに時勢忽ち一變し人民は最早政府を怖れざるのみならず又大にこれを信じ政府の約束
は山よりも重しとして曾てこれを疑ふ者さへなし此際大不景氣を呈し何商賣として損を爲
ざるはなく何人として信を措くべきはなく工塲は閉ざし金融は塞がり資本家は唯だ金を抱
いて途方に暮るゝのみ是に於てか安利ながらも公債證書を買て萬全坐食の計を爲すの風全
國の商工社會を吹き靡かし年六分利付起業公債の如き額面百圓の市價七十圓より八十圓九
十圓を超へ今は既に百七八圓の聲を聞くに至りたり實に驚くべき變化というべし我輩篤と
全國商工家の今の有樣を察するに一圖に不景氣の災難に懲りて商工家固有の膽力を失ひ
戰々兢々唯其資産の減縮を恐れて坐して公債證書の利子に衣食するの恥辱を顧みるに遑あ
らず偶ま天の一方に商况回復の兆候あるを認むるも險を冐してこれに赴くの決心なく萬一
を僥倖して再び臍を噛むの悔を招くべからず危きに近寄らざるは商家の本色なり先祖に奉
ずるの道なりとて子弟を戒めて庫中に閉居し一家團坐南無公債證書大菩薩の神前に歸命頂
禮して他念なき者滔々たる商工社會皆是なり是に於てか世間幾多の有利事業あるもこれを
顧みる者なく不景氣の積陰中漸く既に一陽來復の信兆あれども春待つ準備に着手する者も
なく臆病商人の恐怖心は到底十呂盤玉の勘定を以てこれを融解するの工風なきまでに固着
したるがゆゑに今の商工社會の不規則なる尋常理財の法則を以て糺すべからざるの現像甚
だ多し是即ち眞成なる有爲者の利して以て大に富を作るの機會にして決して空々に看過す
べからざるものなり世人不景氣と呼べば吾れも亦不景氣と應へ世人公債證書を買へば吾れ
も亦これを買ひ寒來暑往遂に個の商機の乗ずべきものなしと信じて疑はざるが如きは我輩
が有爲者の爲めに取らざる所なり