「蠶糸改良の説(前號の續)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「蠶糸改良の説(前號の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

今の日本の養蠶製糸家を■(てへん+「檢」の右側)束して蠶糸改良の速效を見んと欲するか其■(てへん+「檢」の右側)束法寛なれば效なく嚴重強迫なれば甚だ害あり盖し養蠶は農業の事にして之を糸に製するは工業の事なり分業の大法に由り農家は養蠶して繭を作り之を製絲塲の手に渡し製絲塲は熟練なる職工を役して精良なる生糸を製し精粗長短輕重等を一定して之を生糸商の手に渡し生糸商は坐ながら之を外國人に賣るか或は自から之を海外に輸出するの手順なれば今日の如く蠶糸不揃の患もなく不熟練なる箇處あれば之を改良するも亦甚だ容易なりと雖ども今日の實際に於ては農家は養蠶して繭を作り不十分なる道具と手練とを以て之を糸に製するが故に隣里合壁家家皆な其流儀を異にし糸の細大精粗より結束の方法に至るまで百種百樣の觀あるが如し且つ此糸を製するに家家皆水を異にするが故に糸の光澤等も一ならず斯く製法を異にしたる其糸と處處方方より買ひ集め纔に之を一■(てへん+「困」)と爲し又■(てへん+「困」)と爲すものなれば如何に其結束等を仕換ふればとて精粗不揃の病を免るる能はざるは是非もなき事共なり扨て各地方の農家にては何故其繭を賣らずして自から之を製糸するや之を製糸すれば何程の利益ありやと云ふに繭を賣る方利あることあり、製糸する方益あることあり年に由りて同じからず然るに我日本の農業家は事務の順序不整頓にして一年中の或る部分は閑散坐食して日を送り蠶繭既に成りて之を糸に製する其時節は日長くして年の如く山村水落桑麻の家は婦女皆な消閑の具なきに苦しむ折柄にして初めより手間勞力等の考なく糸を製して其糸が繭の代價と同樣なるも亦可なり或は幾分の高價を得れば此際の事情に於て無中有を生じたるの想なきを得ず即ち我邦の養蠶家が繭のままにて之を製絲塲に賣らず自から製糸して幾分かの製糸賃を僥倖せんとする所以にして結局我農工業の未だ發達せざる故なりと知る可し斯かる事情ある其中に組合取締所等を設けて其評議に係る■(てへん+「檢」の右側)束規則を實施し蠶糸改良の精神に於て煩はしき手數を増し多くの入費を要することありたらんには養蠶の損益さへ未だ深く會得せざる者共は寧ろ其煩に堪へずして五畝の宅を皆其桑苗を引拔きて忽ち菜畦に變ずることとも爲らん果して然らば折角の蠶糸改良規則も却て之を沮喪するの媒介となることなきか我輩は竊かに之を疑懼せざるを得ざるなり

前陳の如く横濱に生糸■(てへん+「檢」の右側)査所を設け又蠶糸業組合取締所等を置くは我輩の所見にて其效驗の今日に豫期するが如く大ならざる可しと思はるれども要するに一片の臆測たるに過ぎざれば世上經驗の爲めにとて右等の改良策を施さんとせば我輩は慢に之を非とするを好まず多多ますます改良策の多からんことを希望すれども我輩の特に希望する所は各地方の實踐篤志なる養蠶家が自から率先して隣里を誘導するの一事なり凡そ地方の人民を感化するは口に説て其耳を聳かすよりも身に行ふて其目に示すに若かず各地一方の養蠶製糸家とも聞ゆるものが是れ是れの法を以て養蠶して若干の收穫を増したり、殺蛹法は斯く改良して製糸は箇樣の手順を經たり、糸の細大輕重は斯くの如くにして外國需要者の望に稱ひたり抔、身に行ふて其地方の經濟に適し目前好結果ありたる事を懇ろに其地方人民に説くときは論より證據、爭ひ兼ねて遂に其誘導に服し漸く改良の道に就くことあらん盖し規則にて強迫すれば人民は前に目標とすべきものなく落ち着く先きはイザ知ず無理無理歩を動かすが故に進歩の效も顯はれざれども率先家が前に立て之を誘導するときは人民は之を目標として安んじて其後に從ふ可きなり即ち誘導の強迫に優る所以にして目下養蠶製糸の改良に就き此誘導の任に當る可きものは各地方實踐篤志の人より外ならず然るに此等の人人の誘導に重きを置かずして單に冷たき規則に倚頼して改良策を施さんとするも事の實際に於ては今の民度習慣に適せずして遂に其効を見ざるに終るなきを期す可らず蠶糸改良に就ては我輩重て所見を陳ずることあるべしと雖ども兎に角に此改良事業に就ては各地方實踐篤志の人が先づ其の經驗を以て隣里の養蠶家を誘導すること最とも肝要なりとの次第を陳述し置くものなり                 (畢)