「依然たる封建治下の人民なり」
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本文
依然たる封建治下の人民なり
徳川家康天下を一統し武力以て封建政治の基礎を固くしたる以來二百五十年の間日本全國
の人民武斷専制の下に俯伏して敢て一人の妄りに首を〓ぐる者なく天下泰平武運長久の日
の永かりしは世界古今の歴史に珍らしき現像なりし抑も封建制度は人間社會の有らゆる權
力を武士の一手に集め又これを子孫に世襲するの工風なるがゆゑに自由と公平とは當時一
切此制度中より排斥して其痕跡を留むるさへ許さゞりしは固より當然の事なるべし左れば
此不公平不自由の下に在て農工商民の苦惱呻吟したるは申すまでもなく同じ武士の一族中
にても其制度の餘りに守舊にして餘裕なかりしが爲め間ま大に不平の意なきにあらざりし
到底武士の一族の或る狹小なる一部分に得意圓滿の快樂を世々享有せしめて他は平等一切
に多少の不滿意中に一生を終始せしめたるもの即ち封建制度なりといふべきなり斯の如く
國民の不滿意は全國到る處に鬱積して散ずべからず肝に銘し骨に徹してこれを子々孫々に
伝へ荏苒二百五十年を經過して尚ほもこれを醫するの工風を得ざりしとは日本國民の無知
無氣力なる古今萬國に其例を見ざるものと評せられて一言の申譯なきやうなるものゝ篤と
當時の事情を察すれば幾分か幾分か恕すべき所なきにしもあらず絶海の孤島に住居して他
國との往來を巖禁せられ我生命財産を武士の手中に委ねてこれを左右するの力を有せず生
前より死後に至るまで我が耳目手足の働きを封鎖せられて人の奴隷に生涯する者爭で十分
の知識氣力を有すべき蠢爾二百五十年を生死して遂に其志を成すの機會を得ざりしも強ち
無理といふべからざるなり然るに天運爰に循環して嘉永の末年突然アメリカ船の江戸灣に
入來りしより封建の制度は其根本より撼搖せられてこれを支ふるに道なく破綻百出して彌
縫すべからず不平野に滿ちて鎮壓すべからず遂に明治維新の變革と爲りて此厭ふべき制度
を一掃し尚ほも其餘弊を擧げて洗滌し盡したるなり但し人間社會の不完全なる維新以後の
日本國といへども未だ國民に十分の公平と自由とを許さゞるの實跡多く隨て其改良進歩を
要するもの前途尚ほ山の如く堆きを成すは無論の事なりといへども兎に角に前年徳川政府
の世界を取てこれを今日明治政府の世界に比すれば實に別乾坤の想あるを免かれざるなり
昔し藩士の末班足輕の輩が二号半戴いても主君の御恩に変りないとて辛苦他人の家事に奔
走し他人の馬前に打死するを以て畢生の目的と定められたる日に當りて時に獨座靜思した
らんにさても侍奉公ほど世に馬鹿らしきものはあらじとて世を恨み身をかこち其志を成す
の工風なきに窘しみたるならん又農工商民の類は武士の爲めに榮譽の門を途絶せられ唯金
を儲けて肉体に奉ずるの一事のみ許されたるかと思へば其實此一事さへも亦自由ならず偶
ま辛苦して富を成す者あるも衣食住肉体の快樂を恣にするを許されず強てこれを爲さんと
すれば身分不相應の奢を爲し不屆の至なりとて欠所を申付られ財産を盡して他人に沒収せ
らるゝあり或は志を立てゝ外國の事情を詮索し大に貿易を試みんとする者あれば國法の許
さゞる密商の大逆人なりとて財産を沒収せらるゝの外に我一身妻子眷属と併せて皆其首を
刎ねらるゝあり百事皆比例に凖じ凡そ事とし物として一も無理ならざるなく農工商民は唯
恨を呑で地に入るを待つの外に工風なかりしなれども幸に今日は自由公平の文明世界人々
銘々に己れの欲する所を爲して人の奴隷たるを要せず思ふまゝに富を作りてこれを隱すを
要せず精神なり肉体なり其快樂を買ふが爲め我財を散ぜんとするに其使用法の如何と其金
額の多少とを問ふことなし金あれば百萬石の田地を買入れて其領主と仰がるべく才あれば
萬人の水士を指揮して百艘の商船を進退せしむべし實に前年の不滿意至極なる封建世界に
引替へ今日は是れ得意極まる自由世界なりといふべし然るに爰に我輩が最も不審とする所
は二百五十年間鬱憤に堪えざりし人民が一旦時運に際會して自由の身と爲り志を成し鬱を
散ずるは各其欲する所に任ずるの今日に當りて其状態の依然として舊時の封建人民に異な
らざるの一事なり文明の書あるもこれを讀まざれば書なき昔しに均し文明の衣食住あるも
これに衣食住せざれば其便利なき昔しに均し蒸氣電氣の力洪大なるもこれと農工商業に利
用することを知らざれば蒸氣電氣なき昔しに均し遠く歐米諸國の文明を噂に聞くも未だこ
れを目撃せざれば知らぬ昔しに均し世界の市塲廣大なるも進んで此中に周旋せざれば世界
なき昔しに均し文明の書なく文明の衣食住なく蒸氣電氣なく歐米なく又〓〓なき人民たる
以上は仮令へ身は明治の昭代に生息するも其心は尚ほ徳川の幕下に在るものにして無知無
氣力依然たる封建治下の人民なりと申さゞるを得ず我輩は今日本全國民を見渡し男女貧富
を論ぜず百人に九十九人までは尚ほ未だ封建人民たるの臭味を脱すること能はざる實跡あ
るを承知して國民全体の爲め又其人一身の爲めに痛惜に堪えず一言以て其注意を喚ばんと
するなり