「家屋改良」
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時事新報に掲載された「家屋改良」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
家屋改良
日本流の長袖緩帯は不便利なり不体裁なり之を西洋風に改めざる可らず菜食は人生の榮養
に適せず大に肉食を奬勵せざる可らずとは我輩が日本の衣食改良論として屡々本紙上に開
陳せし所なるが今や論の順序として日本家屋改良の事を論ぜざる可らず元來我國の人民は
消極節儉の經濟を尚び土階三等茅茨剪らずと云ひ上漏下濕環堵蕭然たりと云ひ枉げて居住
の陋隘と珍重するが故に偶ま邸宅を修飾する者あれば輙ち外觀を裝ふと稱して窃かに其擧
を指彈するものなきに非ず又彼の富商豪農の流は昔時財産の保護不安全にして動もすれば
御用金の沙汰ありしと恐れ其富を隱すの一法として故らに其家屋を質素にしたるの舊套を
守り良賈は虚しきが如し抔とて棟甍の鉅大を嫌ふもの少なからず且つ我國の風として家屋
は木と泥とより成り造作建築を土木の功と稱する程の次第にて古來煉瓦石屋の建築なかり
しが故に今日にても尚其建築者に乏しく層闇大舘の石造に至れば外國建築家の手を仮らざ
るを得ず斯かる事の始末なれば首府東京の中にても屋宇の壯麗を以て人に誇る能はず試に
高阜に上て俯瞰すれば幾萬の人家概ね泥塊木屑にして石屋櫛比の盛觀なし又我國一般の風
として財産地位の富貴に比して其家屋割合に美ならず例へば銀行商舘等双方同一の資本を
有するものにても日本と西洋とを比較すれば其家屋の有樣に非常の懸隔あるが如し又双方
同等なる官吏等の家屋に於ても彼此同日の談に非ず數年前の事なりとか日本人某英國に官
遊し歸朝の際兼て親交の英人に向て他年一日若日本に官遊し歸朝の際兼て親交の英人に向
て他年一日若日本に來遊することもあらば必ず弊廬を訪る可し云々と約したりしに右の英
人は其後事を以て日本に來りしかば遂に前約を踐で某の家を訪はんとし先づ其住處は東京
何區なりと聞き彼れ英國に在て曾て何官を勤めたれば家屋も随分宏壯ならんと意中其摸樣
を畫き漸く門前に到て見れば何ぞ料らん竹垣板戸蕭然たる陋巷の寓居ならんとは是に於て
か英人は日本の官吏が職位に比して其居住の粗末なるに呆れたりとの奇談あり盖し此奇談
は唯此官吏のみの奇談に非ず紳士紳商其他一般人民の家屋住居も大抵右同斷にして西洋人
の目より見たらば共に案外の觀を爲すことならん昔時鎖國蟄居の世には家屋の外觀は單に
内國人の眼に映ずるまでなれば左程に掛念するにも足らざれども外交頻繁の今日にては衣
服居住の精粗美惡は外國人の眼に映じて恰かも我文明の度を表するが故に家屋の粗末なる
は一種の國辱たるを免れず加之家は元と人身の城郭なり堅牢美麗安全にして然かも健康快
樂に適當するを要す日本流の木造家屋坐住居宅は美麗の點より云ふに茶室床の間の風雅精
到なる或は小奇麗と云へる評を下すことを得べけれども雄麗壯觀とは云ひ難し一聲の警鐘
屋宇灰燼に歸し家財烏有となる盗賊の侵入を防ぐにも四分板の雨戸一枚の外に恃むべきも
のなきが如きは安全堅牢なりとは申すべからず障子は風に敗れ椽側は雨に濡れ冬は寒を防
ぐべからず夏は暑を避くべからず爭でかこれを健康快樂に適當するものといふを得ん風雨
寒暑に恐怖して其所に安んぜず人身の重きを忘れて健康快樂を意に介せず野蠻の境界を距
る遠からざるものなりとて人に嘲笑せらるゝも是非なき事にして自から文明開化の人と稱
する者の所爲として餘り不甲斐なき次第なれば家屋の模樣を西洋風に變じ人身の城郭を石
造にすること今の日本人の急務なりと云ふ可し然るに此煉瓦石造の法は其傳來遠からず東
京府下にては明治三年に至るまで煉瓦石造家屋の建築を見ず當時内國人中に西洋風の造家
學を研究せしものなく洋風家屋は果して堅牢なりや便利なりやを知る能はざりしが外國人
の勸告に任せ當局者は實地試驗の思想を以て明治三年分析塲即ち辰の口第一勸工塲内に在
る煉瓦の一棟を起工し同四年に至りて竣切したり同年以後煉瓦石屋の建築陸續相起りしが
其建築計畫は概ね英佛人の手に係り其日本人の計畫に係るは明治九年林氏が中央電信局を
建築せしに始まるといふ爾後日本人中にも追々に造家師を出すことと爲り煉瓦石造家屋の
建築も亦頗る容易なるに至りたれば家屋改良の希望空しからずと雖ども今日の實際種々の
故障に因りて速に此企望を達する能はざるは我輩の遺憾とする所なり