「日本社會の進歩變化」
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時事新報に掲載された「日本社會の進歩變化」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本社會の進歩變化
日本の開國は今を距る僅かに三十年の昔しに在り未開蒙昧の地位より一蹴して文明開化の
國々と伍を成さんとするものなるがゆゑに其事業の困難にして進路の平滑ならざるは固よ
り恠しむに足らず先づ明治維新の大業を成して舊時の秩序を頓滅したるよりして大に文明
進歩の路を開き其當坐急進急行の有樣は手負猪の山坂を驅け下ると一般唯眞一文字に進み
去て左右を顧みず木に觸るれば木を倒し石に觸るれば石を轉じ向ふ所前なく其勢當たるべ
からず實に目覺ましくも亦愉快なる事相なりし然るに人心は倦むに易きか將た荷物重くし
て道の遠きに辟易したるか維新後僅かに十年内外にして早くも進歩の速度を減じ時に後を
顧みて昔しを思ふの状なきにあらず然れども全國社會一般の風潮は唯其速度の相違にこそ
あれ依然として改進の方向に在りて移らざりしがゆゑに未だ甚だしき變態を現はすに至ら
ざりしなれども明治十四年政治社會に小變動ありし後は全國忽ち守舊退歩の風潮を捲き起
し爾來凡そ三年の間は奇論僻説天下に横行し世情不案内の人の眼より見れば光輝赫々たり
し文明開化の靈燈もアハヤ魔風の爲めに吹消さるべしと思はるゝばかりなりし我輩は此際
日本國人に向て其憂慮の實に過ぐるを辨明し且つ一時舊守退歩の議論喧しくして無謀淺見
の徒が身の程をも顧みずして妄りに文明に仇せんとするは日本國の進歩の爲めに憂ふべき
事にあらずして實は甚だ喜ぶべき事なり何となれば人の力と金とを以て無理に製造したる
時世不適當の風潮は決して永續し得るものにあらざればなりとて決してこれを憂ふること
なかりし然れども一時其逆流の盛んなるに當ては興に乘じて無禮無法の事をも働き滿天下
の人をして心竊かに憤悶に堪えざらしめ一旦世の風潮正流に復するの日來らば最早此等無
謀淺見の徒に對して容赦寛假する所なかるべく大なく小なく一切の舊弊を破却して孑遺な
からしむべし而して又同時に一蹴して文明開化の長大進歩を爲し再び此等の徒の追ひ及ぶ
能はざるの地位に進め置んづと固く心に誓しめて一両年を過す内早くも社會の風潮は元の
文明の方向に復し守舊退いて開化進み進に隨て其速度を増し反動の力の廣大なる實に開國
未曾有の事相を社會に現出したり明治十九年の文明改進の有樣を取てこれを十八年の有樣
に比較し又十八年を取て十七年に比較するに其進歩の一歩は一歩より速かにして又其及ぶ
所の次第に廣き兼て文明に熱心なる我輩自からに於てすら實に一驚を喫せざるを得ざるの
勢あり盛んなりと云ふべきなり日本全國商工農業不景氣の度は今年は昨年よりも甚だしく
昨年は又一昨年よりも甚だしくして民間の生意日に月に減退するにも拘はらず獨り文明開
化のみは日々に進歩して日々に面目を改め正しく世の不景氣と相反する程の實跡あるは實
に案外千萬の事相なりと評せざるを得ず今此文明の風潮は決して再び退却するものにあら
ず是よりして次第に其速度を増すことあるも決してこれを減ずるの憂あるべからず日本全
國の人もこれを過去の事に鑑みて現在未來の有樣を察し日本の文明は今日以後益其靈燈の
光りを増して永く變易なかるべしとの次第を十分承知せらるゝならんといへども未來を語
るは人情の憚る所にして人も言はず吾れも語らず自然其詮議の盡さゞる所ありて尚ほ躊躇
の情去り難く一意文明の大路に疾驅して左右を顧みざる事を敢て爲ざる者もありて生涯の
悔を招く者なきをも知るべからざれば我輩は爰に後來日本國の文明進歩の豫望に關する一
二の事柄を擧げて世人の參考に供せんとするなり今日の國情を察するに所々の鉄道は縦横
に延長して益々其進歩を急ぎ全國一通り鉄道の便を備ふるに至るは盖だし數年を出でざる
ならん鉄道は文明を輸入して智愚強弱は優勝劣敗のことを速やかにす鉄道一たび成りて全
國の商工農業に何樣廣大の變化を現出すべきや今より其度を測り知るべからざるなり又近
來學校の教育法は專ら文明の法を採用し漢書を廢して英書を讀み和服を脱して洋服を着す
外形に内心に文明主義の少年子弟の身心に附着浸潤する今日の如く甚だしきはあらじ十歳
の童子も十年立てば二十歳となる今後日を追ふて此の學校生徒の成長するに連れ社會の變
化は何樣の點にまで達すべきや實に想像にも及ばざるなり又條約改正の事も今正に再議中
にして近日其落着を見るを得べしといへり改正の條約は果して如何樣のものたるべきや固
より今日に知るべからずといへども内外人雜居の事は其方法の急漸如何を問はず近日其實
施を見るに相違なからん是亦日本社會の有樣を變化するの一大元素なり又首を擧げて海外
諸國の有樣を見るに文明進歩の速かなる實に驚くべきものあり近く日本に大關係あるパナ
マ地峽の運河の如き數年の内に竣工して歐米より亞細亞極東の地に往來するの船舶は皆此
の便路を利用して日本海の繁昌今日に幾倍するものあらん或は北米カナダの鐵道を利用し
て日本と英領コロンビヤとの間に郵船の定期航海をはじむるも近日にあるべく或は米亞の
關係を近密にする爲め太平洋を東西に横斷して日本と米國との間に海底電線を設くるも亦
近日にあるべく兎角して歐米人は日を追ふて多く日本に來り日本人は日を追ふて多く歐米
に行き日本社會の有樣は後來遂ひに何樣の度にまで變化すべきや實に今日より想像すべか
らざるなり日本内外の事情實に斯の如し今日此國に住居する人々は篤と此等の事情を察し
て文明に進むの安心を定め妄りに躊躇疑惑して生涯の悔を遺すことなかれ