「兵士の食物を改良すべし」
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本文
兵士の食物を改良すべし
兵は國の干城なり近時日本にて兵備擴張の論頻りに行はるゝも畢竟は國の獨立を保ちて外
國の侮を禦がんとするの精神なるべし誠に美事にして我輩の賛成する所なれども唯漫に兵
備擴張と申すばかりにてはその意味解らず多く軍艦放銃を造りて戰爭の器械は攻防両つな
がら完全なるも實際にこの戰爭の局に立つべき兵士らの物が不完全なりせば恃んで以て國
の干城とは爲し難からん左れば第一にはその人數を十分にして國防に手不足無からしめ第
二にはその訓練を巖にして精鋭敵無きを期するの策を設くる事必要の儀なれども之を外に
して更に緊切なるは兵士の体力を圓滿強壯ならしめ一以て十に當るの實を具備せしめざる
可らざる事是なり西洋の兵士と日本の兵士と相對し日本兵士の微躯薄力なるは爭ひ難き事
實なり例へば西洋一般の兵士が荷ふ所のランドセルの如きは日本人にては迚も背負ひ切れ
ざるが故これを作るにも故さらに其形を小にして小男子の力に應ぜしむるやう注意せざる
べからずと云ひ又西洋人ならば十人にして運搬する大砲なれども日本人なる時はこれに十
五人を要すなどいふ話は毎々我輩の耳にする所にして今仮りに日本人の力は一にして西洋
人の力は一半あるものとせば日本六萬の兵は即ち僅に西洋四萬の兵に敵し得るの勘定なり
兵士が体力の強弱は其關係實に容易ならざるのもといふべし盖し兵の要は必ずしも數の多
きを尚ぶに非ず寧ろ其數は少なきも力に於て大なる時は江東八千の子弟以て強秦百萬の兵
を蹂躙するに足るなり日本にて近來兵備擴張の實の着々歩に就く誠に宜し三萬餘の常備軍
を殖し追て十餘萬と爲さんとし軍師團の制を編して全國配兵の區畫を定むる等孰れも兵備
擴張の一端にして我輩の賛成を表する所なれども此外に兵士の体力を増す事即ち兵士銘々
に十分滋養の食料を與へて大に活溌強壯の力を養ふの一策に至りては我輩未だこれが吉報
を耳にする能はず甚だ遺憾の思ひあるなり蒸氣機械ありといへども石炭薪料の以て汽力を
保つなければ機械は尚ほ無きに異ならず兵備擴張にたゞ兵士器械の數を増すのみにして他
の兵士体力の強壯を圖らざるが如きは恰も蒸氣機械の働を欲して石炭の供給に注意せざる
ものと一般決して得策とは思はれざるなり
日本兵士の常食は米なり米六合に菜代六錢が通常兵士一日の食料にして大抵一日の食費十
二錢内外に當るといへり此費額は十餘年以前に定まりたる儘にして爾後著しき變化無く両
三年來兵備擴張論の盛んなるにも拘はらず食費改正の一項も未だ大に人の注意を惹かざる
ものゝ如し依て先づ我輩は此食費額に若干の割増を與へ肉食の法を盛んにして今の菜食を
廢止するの工風最も大切ならんと信ずるなり
食物の滋養質は野菜に少なくして肉類に多きこと今ま改めて言ふを要せずといへども食物
の改良を實行するに當たりては一概に滋養の多寡のみを論ずべからざるの次第をも知らざ
るべからず盖し食物は唯單に滋養一邊を以て濟むべきものに非ず体に養ひありて兼て又口
に旨く滋養と甘味と併合両立して人始めてその物を食す若し人間がたゞの滋養品を喰らふ
のみにて滿足するものならば人体支持の原質たる酸窒二素を一定の配劑分量に調じ合はせ
藥品としてこれを服用するばかりにして生命も繋がり筋力も増し併て人生の快樂を享け得
て不足なしといふの奇談あるべしといへども人間食慾の事は到底化學分析の力にては制し
難きものゆゑ矢張りこれを嗜慾に訴へ徐々その改良を計らざる可らず故に我輩が今日兵士
の食料を滋養の多き品々に改めよと主唱するに當りても全く滋養の一邊に偏して他の一方
の甘味如何を放擲するものに非ず特に食物改良の途に横はる障碍は獨りこれに止まらず即
はち一般人の習癖なるものありて日本人が米を喰らひ蔬菜を喰らふの習慣は祖先幾代の昔
より傳來せしものなれば一朝これが習癖を破りて洋食の門に入る際には隨分不愉快の事共
多かるやに見ゆるとは云へ昨今の時勢にては男子は更なり婦人までも颯々と西洋を喫して
少しも不味を感ぜざるが如し是れ西洋食は日本食に比して第一滋養多しといふ其外に第二
甘味にして口に適するの致す所なりと云はざる可らず左れば今日兵士の食を洋風に改むる
に當りても彼の習癖は決して恐るゝに足らず洋食の進むところ前に敵なしといふの有樣な
ること疑がひなきなり
食物の滋養甘味又は年來の習癖等に關して詮索すれば兵士の食料を改良するに少しも差支
の廉を見ずといへども唯此實行を妨ぐるものは費額の追加なり今日一人一日の食費十二錢
位のものにても尚ほ其費用の少なからざるが爲めに十分の兵員を養ふこと能はざるを憂ふ
る折柄如何でこれを更に増額するの工風あらんやと論辨する者あれども我輩は此論に服せ
ず何となれば食費増額の工風は如何樣にも付くべく眞實金の出所なくば兵員の幾分を減じ
て食料に不足なからしむるの工風もあることと信ずればなり併しながら仮りに食費は今の
まゝ据置くものとして此費額の許す限り食料を改良するの工風も亦甚だ大切なるものに付
參考の爲め爰に一と通り其次第を述ぶべし或人の説に依れば東京鎭臺府下駐營の兵士大數
四千足らずの人に悉く牛肉を喰らはすものとして概算すれば中等肉一片の價六錢に昇らず
して充分これが供給を爲すこと容易なるが故兵士一名日に八十匁の肉を食すとすれば其代
價四錢内外にて濟むべしと云へり目下鎭臺兵の常食なるものは前にも記せし通り一日の菜
代六錢許にして而してその實品如何にといふに重に野菜類にしてたゞ時魚肉の賄あるに過
ぎずと聞けり今此六錢と野菜の代りに肉に消費するとせば割烹費用を合はせ日に何十匁の
肉は尋常兵士の口腹に入るゝのことを得るならん又我輩が東京鎭臺歩兵第三聯隊に於て実
地に試驗したる蒸餅米飯損益比較表なるものを見るに(蒸餅とは小麥粉を以て製したる麺
包の一種にてかの質稍々硬し)一食二合の米飯と同く半斤の蒸餅との費用に於ては蒸餅に
四厘八毛餘の低廉を見るこれを一日三食に乘ずれば蒸餅の利得一日金一錢四厘五毛餘に當
るが故これを以て菜代を補給すれば各人良菜を得べしとなり又或人が私に兵食改良の考案
を立てたるその大意なりといふを聞くに差當り一人の費額を今の一日十二錢に豫算し悉皆
兵士を洋食者にして何れほどまでの食品を與へ得るやといふにパン一日一斤半、朝はソツ
プに野菜、晝夕の両度は肉各三十匁づゝこれに馬鈴薯野菜類を多量に調和し例へばビーフ
ステツキ、カツレツの類一品づゝ外に若干のバタ等を給する易しとなり若し此等の計算に
して實地に大差なきものとせば兵士の食料改良は案外手輕き仕事なりと評せざるを得ず况
んや今のまゝに食費の定額を据置きて萬一不足の事もあらば更に幾分の増額を爲すも決し
て苦しからざるに於てをや兎に角に兵士の食料改良は兵備擴張の精神に悖らず又これを實
行するの工風にも乏しからずとする以上は最早これを猶豫するの要なかるべしと信ずるな
り