「居留外國人は帰化す可し」
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本文
居留外國人は帰化す可し
治外法權の制は無勘辨なる外國人の毎度賛成維持して便利なりと揚言する所のものなれど
も其便利は唯目前狹小の部分に行はるゝのみにして實際に於て更に大不便の之れに伴ふも
のありと申すは此制の行はるゝが爲め外國人居留地の區域に制限あり金錢智力の働は此制
限内に封鎖されて直接に内地の事に與る能はず日本の内地に鑛山ありと聞けども親から往
て之を掘發するに由なく養蠶製糸盛なりと聞けども自身直接に内地に入りて生糸荷主の門
を敲くを得ず其他遺利の拾ふべく富源の開くべきもの彼等の眼に映じて多からんと雖ども
彼れ亦商鞅の流亞なるか自から治外法權を制して自から其法の束縛する所となり或は知て
或あ知らずして異常の不利を蒙り居る者の如し抑も今ま日本に居留する外國人は何のため
に日本國に來りしや山水の明媚を樂んで風雅の情を慰むるが爲めか將た東洋の孤島に向て
歐米文明國の文を示さんが爲めか我輩の聞見を以てすれば布教の爲めなり遊覽の爲めなり
其目的一ならずと雖ども十の八九は商賣生財の爲めにするものゝ如し商賣生財の眼より見
て治外法權は實際何程の便利ありやと尋るに或は時として奇なる我意を主張するの便利も
あらん財産上の訴訟などにも自國領事の裁判とあれば自然好都合なりとの事情もあらんか
しれども是ればかりの便利と都合とを享有するの故を以て居留地の制限を存し肝心要の商
業を方十里の内に畫り直接に日本内地の商品富源に近づかざるは外國人が住慣れし故園の
親戚朋友にも離れ幾多文明の快樂を振り棄てゝ日本に來りたる第一の目的に背くものには
非ずや第一の目的は錢を儲くるにあり此目的を達する爲めには自國文明の快樂も親友團欒
の歡も皆な之を顧みるに足らず東洋の商遊、多少の不愉快は覺悟の前なりとて日本國に來
りたる其人が治外法權の小便利に戀々して日本内地の商賣に與ることを敢てせざるとは何
事ぞ始めに勇にして終りに怯、前後不揃の談なりといふべし左れば居留外國人は今より心
を改めて如何にもして日本の内地に入り日本人通りに立働くの覺悟專一なりとして扨條約
改正も近日に在り内地雜居も其改正に伴ふことならん此機會を空うせずして彼等が日本の
内地に入りて日本人通りに運動すること甚だ易しと思ふ者もあらん果して此の如くなれば
我輩の素望も達したるの姿にて誠に目出度次第なりと雖ども我輩を以て今日の雲氣を察す
るに條約は申分なく改正され外國人は全國一般に雜居するの運びに至る可きや聊か掛念な
きに非ず且つ内地雜居と爲るも所謂内國人民と寄留外國人との間に幾分の權利を異にする
は歐米各國の例にして日本にても亦同樣なる可きが故に我輩が今の居留外國人に向て勸告
する所は條約改正内地雜居の事如何に拘はらず今日より心事を轉じて日本に歸化し一時又
は永久日本國人の籍に入るの一事なり
從來我國にては歐米人の歸化甚だ稀なりしが故に精密なる歸化人取扱法もなしと雖ども歐
洲諸國の法を按ずるに容易に歸化を許すあり或は八釜しきものありて一ならず、其中佛國
の法の如きは甚だ簡易なる者にして外國人が佛國に至り歸化請願書を政府に差出せば政府
は之を許否するの權を有し、許す可しと見做せば之を認可す即ち通常の歸化なり又外國に
滞在する佛國人の父母の間に生れたるものが偶ま佛國に歸りて居ること一年なれば歸化の
請願なきも尚之を佛國人と見做すの法なり之れを特別歸化と云ふ又佛國の法律にては妻は
其夫の身分に従ふものとし佛國人が外國の女を娶るときは其女は直に佛國人と爲るものな
り我國にても神奈川縣下及び其の他に西洋人歸化の例あり今後も亦ますます増加す可きが
故に歸化の手續は成る可く之を簡易にし又其原籍に復するの手數をも容易にして其我國に
歸化し又本國に復籍すること恰も内國人が縣々に轉籍する者と同樣にして當さに然る可き
ことならん凡ろ天地間の人が偶然に某國に生れたりとて長じて四方に遊ぶときは則ち四方
の人なり如何なる事情あるも終生己が姓名の上に某國人の字を冠せざる可らずとの理由は
達觀者の眼に見ざる所なり盖し國の肩書に戀々して雄飛すること能はざるは往時交通不便
にして人間幾多の小社會が各處に孤立せし世の遺習たるに過ぎず苟も今の西洋男子が志を
立てゝ郷關を出て商賣生財を目的として東洋に來り寶山に咫尺して尚ほ躊躇するは勇者の
擧動に不似合なるが如し既に故國の快樂に孤負して萬里の外に在り、其目的を達するが爲
め多少の故障不愉快に堪ゆるは固より覺悟の前ならずや我輩は居留外國人に向ひ其來東の
初志を成すが爲め今の事情に於て颯々と我國に歸化するの得策なるを奬説せんと欲するな
り