「婦人の旅行」
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時事新報に掲載された「婦人の旅行」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
婦人の旅行
日本婦人の地位卑くして知見の甚だ狹隘なるは識者の毎度嘆息する所なれども其此に至り
しは婦人先天の性質に於て然るに非ず社會の氣習教育の致す所、男子獨り跋扈して婦人の
精神肉体を壓抑し勉めて世事を知らしめざりしの罪居多なりと云はざうを得ず左れば今我
國に於て文明諸國の風を追ひ婦人の地位を高めて其知見を開かんとするには男子自から此
意を体して深切に婦人を待遇し夫は其妻に對して細かに家政内外の事を語り何事に就きて
も一應相談して其意見を問ひ身分に應じて日々經歴する世事を談じ一家妻女をして世上の
事を聞き慣れて之を考察せしむること肝要なれども今の婦人の有樣を見るに家事世事に就
て男子の相談相手と爲る可き者甚だ少なきが如し男子が終日戸外に奔走して精神を勞し肉
体を役し得々たることあり怏々たることあり日暮家に歸て燈下に坐す、共に其日の苦樂を
話して胸襟を開くものは唯一の妻あるのみにして眞に憚るなきの親友たる可きに此妻や知
見狭隘にして夫の所思を知らず例へば夫が世事民情の大勢を思案して竊に功名の志を抱き
談緒少しく其邊に亘ることあるも妻の之を聞くは馬耳東風に異ならず夫の身に至大至重な
る事業名譽の輕重を知らず其社會に對するの關係如何を解せず况して遠國の風俗人情地理
の談の如き殆んど天外の事として之に心を留ることなし要するに夫妻の心事その調子を殊
にして遙かに相齟齬するものなれば婦人の地位の卑くして常に男子の下風に立ちますます
男尊女卑の勢を固くするも亦謂れなきに非ざるなり左れば今我日本國の社會のためにも又
その國人一家のためにも女生の智識見聞を開くの急なるは今更辨論するにも及ばず其方法
に就ても識者の常に言ふ所にして學校讀書の教育抔も至極要用の事なれども我輩の見る所
にて捷徑を求れば婦人の旅行も亦一手段として大に効力ある可きものと信ずるなり
西洋諸國にては船車交通の便あるを以て男女共に旅行を厭はず春喧秋晴花草の美を追ふて
去て殊邦の園林を訪ふあり都市城池の盛んなるを観、斷碑舊墟と荒草の中に探り夏日暑を
避けて幽邃清閑の山水に遊ぶ等生計に餘裕あるものは一年両三回の出遊を試みざるものな
き程なれば婦人の見聞頗る廣く遠邦の風物習俗を語り目撃經歴の事物を談ずるに於て男子
も或は遠く及ばざるものありと云ふ之に反して不幸なるは我日本の人民なり封建時代關門
互に隔て旅行困難なりしの遺習にや男子にても旅行を面倒なりとし其足跡を一地方に限る
の風にして婦女子の如きは畢生家内に閉ぢ籠り見聞を異邦遠邦に馳すること能はずして天
地自から狹く談話の材料甚だ乏しきを免れず近頃或る宴會の席にて西洋婦人が日本の貴婦
人に向て種々談話を試むるに兎角談緒の永續せざるに苦しみ貴婦人に生國は何れなるやと
問ふに肥前なりと答へたれば長崎の談こそ適當ならんと自身が東京に來るの途次同所に立
寄りたる時の摸樣を述べ尚ほ貴婦人の所見を聞かんとせしに貴婦人は肥前に生れたれども
未だ長崎を見しことなしとの返答に二人の間の談話も止むを得ず中絶したりと云ふ西洋の
諺に知見を開くの捷徑は旅行に在りと云ふことあり今日本婦人の地位の卑きを嘆じて其智
見を開かんとするには讀書教育交際の外に四方に旅行するの風を養ふこと更に肝要なるべ
し今日交通の便利なる両三月を費せば鳥渡外國に往復することさへ自在なり况して日本國
中の觀光は其事甚だ容易なるが故に婦女子にして身に差支へなき者は自からも進み人にも
勸めて時々諸方に旅行する其間に見聞を富まし經歴を増し交際談話上男子の獨擅を許さゞ
るに至らんと我輩は希望する所なり