「工事受負に就ての術數」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「工事受負に就ての術數」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

工事受負に就ての術數

金を儲けんとするは世界一般の人情にして正道の射利に熱心するは固より怪しむに足らざ

れども意馬心猿動もすれば正道を逸して漸く權道に踏み迷ひ賄賂苞苴奸詐百出の醜態を呈

するに至るは誠に苦々しき事共なり左れば西洋の學者中にて往々商業上の徳義を論ずるも

のあり其論の略に近來世上殖産の事を重んじ隨て金滿家を尊崇すれども其之を尊崇するや

曾て人物の如何を問はず財産富有同樣なれば正直に富翁、不正の奸商之を尊崇するの度を

異にせざるが故に人爭ふて財に走り商業上の奸詐術數ますます増長するの勢あり因て此勢

を制するには世人をして金滿家の正不正に注意せしめ勤儉富を致したるものを尊び不正の

奸商を卑しましむるの外ある可らず云々と云へり此説如何にも尤もなれども事の實際に於

て世人が金滿家に正不正の區別を立て不正商人をして徳義上自から慚て其心事を改めしむ

るに至る可きや我輩之を保證する能はず今の射利熱心の世界に公然人に語る可らざる程の

術數を以て其目的を達せんとするもの多きは勢の自然なるが故に此種の人なきを期す可ら

ず唯此種の人に接して之れに處するの道を講ずること甚だ肝要ならんのみ

射利の目的を以て商賣し製造し起業するに人民を花主とするものあり政府を相手とするも

のあり政府は集合体にして損益利害直接に人々個々に感ぜざるが故に物を買ひ新に製造を

命ずる等の塲合に自から寛大なる所あり御用商人が當局の權勢あるものに取入り其信任を

得るときは金銀の蔓手に在り、之を引くこと難からざるは何れの國に於ても皆な然らざる

はなし特に文明國に於ては偏私の跡を外面に留めず然かも遂に其私を成すの工風いよいよ

出でゝいよいよ巧に擧世其私曲を指摘する能はざるの例少なからず近年米國政府にては軍

艦製造を國内の造船所に命ずるに其軍艦の大小機關結搆の精粗等豫め其摸形を示して諸造

船所の製造費を下問し其入札を見て之を最低價の者に注文する由なるが胸に一物あるもの

は入札の際に最低價を以て其製造を請負ひ實際計算に當らざるを知りつゝ之を製造する其

中に一年二年を費すが故に文明學術進歩の際種々の新發明相續て起り据付機關に改良ある

とか新形の銃砲〓行するとか、艦中の點〓當初は蝋燭を用ゆる筈なりしに〓に電氣燈を裝

置することに改まるとか、軍艦及び其附属品に様々の改良進歩あること必然なれば政府若

し世に進歩を追ふて良軍艦を得んとすれば當初注文の趣を變ぜざるを得ず斯くて注文の趣

を變ずる其時は軍艦半ば成りて最早中止す可らざるの時なれば其造船所にては此處ぞ乘ず

可き機會なりとて先づ當局の人の歡心を買ひ置き扨て其改良に屬して趣を變ずる部分丈け

は自分一家の受持にて他の造船所の入札を許さゞれば此部分に向て〓常の高價を申し出し

當初計算に合はざりし受負も此に至て莫大の利を見るを期すと云ふ世上の進歩緩慢なりし

昔日に在ては注文品製造中に其趣を變ぜざる可らざるが如き事情もなく受負人は初より相

當の利を見て其注文に應ずるを常としたるに發明工風日々輩出の當世に在ては軍艦屋宇其

他成功時間の久しきに渉るものは世の進歩に連れて搆造着手中幾回か其趣を變ぜざるを得

ず而して彼の射利熱心家が此間に乘じて公言す可らざるの利益を貪ると云ふ以上は唯我輩

が曾て耳にしたる一例なれども智巧の商人をの計略一にして止まらず奇略妙計いよいよ出

でゝいよいよ奇妙なること猶ほ彼の圍碁の名手が石を下だすに當りて一手又一手毎に凡人

の意表に出でゝ傍より豫じめ測る可らざるものに異ならず左れば其計略に陥らざるの法如

何して可ならん唯その事を知るの一法あるのみ圍碁の名手に窘めらるゝなからんと欲する

者は自から碁法を學ぶ可し受負の術數を防がんと欲する者は自から其工事の性質難易を知

るのみならず仮に我身を受負人の地位に置き奇略妙計の圖畫とも畫いて始めて禍を免かる

可きなり我政府の筋にも受負に工事を命じたるは甚だ多くして今後も亦甚だ多かる可し其

際の處分次第にて或は寛に失して受負人の大に利することもあらん或は巖に過ぎて爲に破

産する者もあらん其寛嚴は兎も角も唯我輩の所望は政府の當局者が工事の大体を辨ずるこ

と建築學士の如く兼て又日常の鄙事に多能なること坊間の受負人の如くにして其知見の博

く且細密ならんことを祈るのみ