「婦人の財産」
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時事新報に掲載された「婦人の財産」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
婦人の財産
人間の交際に於て尊卑の別を生ずる其原因は固より種々樣々なれども恩惠の授受も亦其一
原因たる可きなり主人尊くして奴僕卑しきは何ぞや奴僕は常に主人の恩波に浴し頼て以て
其生を安んずるが故なり親尊くして子卑しきは他に非ず子は其親の養育を受け其慈惠を仰
ぐが故なり恩惠を受くるものは之を授くるものに對して恰かも負債あるものゝ如く負債者
自から其身を卑下すれば之れと同時に債主の位地はますます尊からざるを得ず即ち東洋の
陋習として男尊女卑の傾きあるは男子常に授恩者にして女生は受恩者の位地に立つが故な
らん試に東洋婦人の生涯を見るに三界に家なしと云ひ百年の苦樂他人に因ると云ひ其有樣
は水中の〓(草冠に行・こう)藻自から其安危を制する能はず行住唯水の順逆に任ずるも
のゝ如し飄々片々身に固有するものあらざれば自から其身を養ふの手段ある可らず、幼に
して父母に從ひ、嫁して夫に從ひ、老て子に從へとは女子三從の古訓にして其これに從ふ
や所謂名教のために柔順なるのみに非ず實際に於て衣食の供給を其時の主宰者に仰ぎ生涯
受恩者の地位に居て一身自から苦樂を制すること能はざるものなれば遂に他の下風に立つ
の習慣を成したるも是非なき次第なりと申す可し
恩惠の主宰者は其位地自から尊くして其恩惠を仰ぐものは自然卑下せざる可らずとの事果
して是ならば今の男尊女卑を破りて日本婦人の品格を高むるには婦人をして漸く其受恩者
たるの位地を脱せしめざる可らず其方法固より一にして足らざる可しと雖ども婦人の財産
権を固定することは最も肝要ならんと信ずるなり我國にては民法未だ成らず婦人の財産権
も亦有無の間に在れども歐米文明國にては頗る其權を重んじ例へば英國などにては夫妻
別々に財産を有して夫は猥りに妻の財産に干渉する能はざることあり又夫妻間に財産の爭
論あるの塲合に其夫妻たる間は之を訴訟する能はざれども一旦離縁の上は妻より其裁決を
法廷に仰ぐことを得べし其他婦人の財産に關して法律上十分に保護あるとの事なれども我
日本の國風は之に反し夫婿放縱にして妻の所持品を典賣し然る後にて離婚を申し出す等の
塲合あるも之を奈何ともす可らず且つ古來の習俗として婦人は一生他人に寄食するものな
りと觀念する其傍に男子家督の法行はるゝが故に遺産の配當は婦人に及ばず金滿家の女子
と生れて金滿家に嫁し他日實家の父母死するか或は舅姑の喪に逢ふも両家の財産は夫れ夫
れ其家督に傳はりて直接に遺産の贈與に逢ふことなく一朝鴛鴦翼を分つか或は寡婦の身と
なりて更に再嫁する等の塲合にも許多の遺産を携へて他家に移ること能はず或は一種の事
情にて婦人ながら私に財産を所有することあるも唯生涯その身の保養を豊にするを得るの
みにして身死すれば其財産は必ず歸する所に歸して動かす可らざるが故に財産あるも其生
前の勢力甚だ重からず盖し我國には隨意遺産の習慣あらざればなり西洋諸國にては婦人の
財産權の固定なること前陳の如く之れに加へて隨意遺産の風あるが故に婦女成長して將に
人の妻たらんとする頃には身分に應じて相當の財産を有し或は偶然にも親戚の喪に際して
莫大の遺産を受け妻の財産其夫に幾倍するが如きことあり又隨意遺産の風ありて遺産の分
配は單に材主の愛憎好惡に存するが故に爰に年老て財産ある婦人あれば子女弟妹は其の遺
産配當の多からんことを欲して平常深切懇篤なるを示し材主たる婦人は恰かも愛慕と追從
とに圍まれて愉快に其餘生を送るの事情ありと云ふ事柄は至極鄙劣なるに似たれども利を
好むの人情當さに左もある可きことにして鄙劣にても卑陋にても當局の老婦人に於ては死
後の遺産を以て生前の勢力そ重くする者と云ふ可し、知る可し日本の婦女子流が男子の下
風に立て常に其鼻息を仰ぐは決して偶然に非ざることを、財産は權力なりとは套語なりと
雖も實に不易の言なり而して日本の婦女子流は其權力の源泉たる財産を左右するの自由を
失ひしが爲め一生他人の憐を乞ふて下流に沈淪せざるを得ず左れば今その品位を高めて西
洋婦人と同格に上らしめんとするには教育交際職業等種々の方便ある可しと雖ども今後立
法者の注意にて法律上婦人の財産權を重んずると兼ねて又世上の風習に於て遺産分配等に
男女を區別せず婦人をして往々許多の財産を管理せしむること最も肝要の事なる可し