「婦人の職業」
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時事新報に掲載された「婦人の職業」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
婦人の職業
我輩嘗て言へることあり國の文明に論なく婦人の位地は尚武の國に卑くして工藝の國に尊
しと其故如何と云ふに兵馬の事は婦人の天性に於て耐ゆ可らざることにして此點に至ては
婦人は男子に依頼して偏に其保護の恩を仰がざるを得ず即ち尚武の國に於て婦人の位地、
男子に比して相懸隔する所以なれども工藝の事に至ては婦女の技倆必ずしも男子に讓らず
或は一歩を讓ることあるも共に其間に周旋して相扶掖することを得るが故に婦人自から其
能に食むの傾を生じ其品格亦隨て重きを加ふ可きなり然るに今世局の變遷を見れば世界文
明の進歩と共に尚武の風は漸く減じ何れの國にても次第に工藝殖産の事の發達するあり婦
人が其技倆を顯はして其品位を進むるの時期既に到來したりと申す可し元來婦人の性質は
微妙なる部分に頴敏にして手藝心智特に此部分に向て發達するものゝ如し或る學者の説に
何れの國の醫學にても男女同時に之を學べば女子の方平均して男子よりも速成するを常と
すと又或る醫師の實驗に據るに病患の男女來て診察を乞ひ其疾病の容体を陳するに當り男
子は状を具すること粗略曖昧にして爲めに醫師を困却せしむることあれども婦女は其發病
の前後を語り朝暮病勢の變遷等を述ぶるに平均して精密詳細なりと又世界周遊者の言に異
域殊邦に入り道の迂直遠近を知らんとして之を男子に問へば往々詳細を欠くことあれども
婦女の指導報告は旅行の前途を知るに最も有益なりと云ふ即ち女生の心智の微密頴敏なる
働にして發して手藝上に現はるれば最も貴重す可き性質なるに我日本國に於ては此美性良
質を空うして婦人の働を業務上に發達せしむるを許さず其手藝と云へば纔に裁縫音曲等に
限るが如き姿となりしは盖し古來の習慣男子の社會が獨り權を專にして秦皇黔首を愚にす
るに略を用ひ以て女生を窘めたるの因果なりと云ふ可し眼を轉じて歐米文明諸國の形勢を
見れば近年工藝の發達と共に婦女の職業はますます増し娟々たる其姿、繊々たる其手を以
て電信局の技手となり鐵道局の書記と爲り宣教師と爲り教育家と爲り醫師と爲り畫工と爲
り新聞記者と爲り滿身の藝能を發露して戸外活溌の職業に從事し一身獨立の計成りて苦樂
百年他人に依頼するを要せず是に於てか婦人の位地は一層一層よりも上進して男女正しく
相對峙し両生相扶けて社會の全面を維持するものゝ如し抑も歐米社會に斯る勢を成したる
其原因は一にして足らず教育交際等の進歩素より與りて力ありと雖も女子職業の發達は其
効最も大なりとの定評あれば目下我國に於て男尊女卑の風を破り國の元氣を増進せんとす
るには官の學校なり私の會社なり婦女子に相應の職業を授るの塲所を設け婦人をして男子
同樣戸外の職業に就かしむること肝要なる可し特に我國に於ては國の製造品にして婦人の
手を傭ふ可きもの少なからず國産第一流の養蠶製茶等は最も婦人の職業にして電信、郵便
の取扱畫圖、寫眞等の手藝も亦都て女流の長技なる可し中に就て我輩の最も後來に屬望す
る所のものは醫術にして産科の如きは特に婦人の專業に歸す可きものならん明治十六年の
調査に據るに日本全國の産婆は一萬九千二百四十九人とあり此産婆等は一應の試驗を經て
開業する由なれども其中の大數は皆飴を舐て孫を弄する輩、初めより學術の覺えあるもの
ならねば難産に處して宜しきを得ざるのみならず仮令へ平産にても學理の智識に乏しきが
ために無益に勞して却て意外の禍を致すの談は我輩の徃々耳にする所なり此際廣く世間の
爲めを謀れば夙に醫學を研究したる專門女醫の數を増し世の産婦をして其健全を得せしむ
ること衛生上最も肝要の事ならん近年歐洲諸國にても女醫學校の興るもの甚だ多し我輩は
唯その風に傚ふて日本國にも之を行はんと欲するのみ新に奇策を献ずるものに非ざるなり
或は從來の陋見を以て婦人は家政庖廚の煩務に當らざる可らざれば一旦人の妻と爲れば戸
外の職業は之を執るに難しなど云ふものもあらんかなれども外に適當の職あれば戸内の事
は之を婢僕の爲す所を爲さゞる可らざるや謂れなきの甚しきものと云ふ可し婦女戸外に職
業を求め男子を離れて自から糊口の資を得れば國中頓に一半の生産力を増すの姿にして公
の經濟に於て大に補益あるのみならず婦人の位地も是に至て始めて幾層の高きを加ふるの
實を見るべし左れば今我國に於て婦人就職の道を講ずるは單に當局者たる婦人の私のため
のみならず天下經濟の點より見ても等閑に附す可らざる所のものなり