「日本の稲田は封建の遺制なり」
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本文
日本の稲田は封建の遺制なり
日本の工業は見るに足るものなく商業は尚ほこれよりも甚だしきものあり唯農業は古來全
國の人口過半數の人の營む所にして國家の經濟皆これに依頼し來りたるものなるが故に日
本を稱して一個の農國といふは稍や實に近きものあらん然るに古來日本の農事は一種の變
相を備へ世界普通の農事とは大に其趣を異にせり此有樣にして永續せん限りは國の富榮を
謀るの工風盖し甚だ困難なるべしと信ずるなり尤も近來は世上にも農事改良の説漸く行は
れて從來の農事の不充分なるを知得したるやの色もあれども其謂はゆる改良なるものは
たゞ此迄の耕作法若くは栽培法に修正を加ふるに過ぎずして例へば稻株を肥すとか米粒を
大くするとかいふ位の局部偏小の處に着目し老農老圃流の思想の範圍を脱すること能はず
結局日本の農事はその大本より既に誤りあるに心附かざるは我輩に於て殘念この上無きな
り左ればとて我輩が決して今の農事改良説を排弃して只漫に斯る方策を罵るものに非ず如
何にも全國最多數の農民を驅て一朝これを農以外の職業に就かしむる譯にも往かず今の農
事にも加へ得べき丈けの改良修正を施すこと無論大切なりとは云へども此に際して我輩少
しく農事熱心者の注意反省を仰ふぎ度次第もあればこれを左に陳ぜん
日本の農事は如何なる原因よりかして米を作るの一事に偏傾し農業と云へば米を作るもの、
米を作らずと云へば農業は成立たざるものと合點し多數の農民十の九までは米作の外に他
に農事を知らず其偏傾の甚しかりしが爲めに遂に併て他の有利なる農事までを忘却したる
は復た蔽ふ可らざるの事實なり全体農事と稱すべきものは其範圍包括頗る廣く單に穀物を
作るのみが其本領にはあらず况て穀物中の爾かも一小部なる米を作るの業が農民の本務な
らざるは明白の道理にして苟も土地を利し富を生ずるものならんには悉く斂めて農の部中
に入れしめざる可らざるなり試に方今世界にて農業を以て名ある國々を見るべし亞米利加
諸州若くは濠斯太利の諸殖民地或は歐羅巴の本陸等孰れの處といへども其農民たるものは
穀物耕作の外に他の農事を兼業とし例へば郊野あれば牧業を兼ね山林あれば山林業を兼ね
水利あれば漁業を兼ね或は菓物を作り園藝を業とする等必ず穀物耕作の外に一種若くは二
種以上の兼業を營まざる無し米國濠洲の農民が一般に牧畜を兼業し歐洲本陸の農民が園藝
若くは山林を兼業とする等の事例は我輩が爰に言ふを要せざるなり然るに獨り日本の農民
に限り如何なれば米を作るより外に農事無しとの心得違を爲したるやと尋ぬるに全く封建
割拠の制のこれをして然らしめたる者と言はざる可らずその昔し此日本國が群雄割據の巣
窟となり五分十裂の其際に在りては〓（門構えに困）外一歩敵味方を異にし絶て經濟上、
有無流通の途あらざるが故糧に敵に依らずして一城に立籠るの覺悟無かる可らず即ち各自
米を作るの必要ある所以にして尋で徳川二百五十年太平の其間にも各藩互に封を分ち素破、
事ありといふに當れば鎖藩籠居の已む可らざるが故農民に嚴命して專ら水田を耕さしめ畑
を潰して田と爲すを奬勵して專ら水田を耕さしめ畑を潰して田と爲すを奬勵し務て糧米を
多からしめたる積習より日本の農事遂に言ふ可らざるの惡運に陥りたるは復た如何とも爲
す可らざる次第なれ共今や國を開て外國と交通し貿易の途次第に繁くその勢ひは恰も全地
球を分劃して夫々分業の産物を作出する有樣となりたるなれば好しんば日本國にて米を作
らずとも之を海外より仰ふぐことは易々たるなり二十年前までは日本には封建割據といふ
制度ありたるが故に農夫が米穀耕作を專務とするの必要も與ふ共に存在せしことなれども
此制度の全滅したる今日に迄尚ほ依然として自作米の必要ありと心得居るは實に時勢を知
らず又經濟にも迂闊なる至りと申すべきなり且つ一歩を進めて論ぜんならば米は固と熱帯
地方の固有産物にして周年幾度の収納あるものを日本國の如き暖帯の地に態々耕耨して其
有利を謀らんとするは抑も不策の至りなりと言ふの外なからん左すれば日本にて米を作る
といふ事は第一その根本より間違へ居る道理にてこれに何程の改良を加へたりとて枝葉の
手段は以て根本の病を全治するに足る可らず故にこの點より考ふれば今後日本に於ては米
を作るを廢して其他の利益多き農事に就くべきこと極めて得策なるに相違無けれども前申
す通り米作の一事は幾百年の昔より日本の農民に固着したる積習ゆえ俄にこれを廢すとい
ふ譯にも往くまじ我輩とても強て又これを廢せよとは論ぜざれとも兎に角に米のみを作る
の農事が變則の者と知れたる以上は一日も早くこれを本路に引直して農利を謀ること極め
て大切なりと信ずるなり