「コレラ」
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時事新報に掲載された「コレラ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
コレラ
人間世界の所謂害惡なるものは渾體皆害惡といふにはあらずして害を含むこと多くして利
を含むこと少なきもの即ちこれを害惡と稱するものゝ如し然るに彼の惡疫の如きは此例に
あらずして渾體皆害惡ならざるはなく惡疫流行の爲めに我人間世界は何等の利益をも得る
こと能はずして唯其害を蒙るのみなり日本國民は何等の不幸にや數年以來年としてコレラ
の襲撃に遇はざるはなく爲めに人命財産を徒費する其弊害勝げて云ふべからず本年の如き
も陽春の時節櫻花初めて枝を辭するの候よりして早くも京都大坂の地方にコレラ漸く流行
の兆あり其病症の劇烈なる一たびこれに罹るものは十中の七八必ず黄泉の人たるを免か
るゝこと能はず斯くて漸く近畿の諸縣に蔓延し今日に至りては京都大坂は勿論これに接近
する兵庫、岡山、廣島、和歌山、愛媛等の諸縣も亦皆コレラ病流行の地と定めらるゝに至
りたり日本全國頻年コレラ流行の災難に懲り本年の如き京坂地方該病流行の兆ありと聞く
と齊しく各地方の當局者は大に豫防の手當に力を盡し到る處として〓(手偏、儉のつくり)
疫避病の事に奔走せざるはなし殊に東京の如き百萬の人の集まる所別して豫防の必要を感
ずるは無論の事にして人々の配慮盡力一方ならざるなり然れども果して豫防の功を奏して
遂に本年該病の流行を東京地方に見ずして止ことを得るや否や甚だ掛念に堪えざるなり盖
し數年以來全國の諸業不景氣の爲め人民衣食を給すること能はず幸にして凍死餓死せざる
も惡衣惡食して纔かに一日の露命を維持する者全國を通して幾十萬なるを知るべからず此
等の窮民は必ずしもコレラの手を仮るを待たず一朝の雨一夕の風其生命を絶つに十分なる
折柄忽ち劇烈なる惡疫の襲來に遇ふ一齊に首を授けて免かれ還ることを得ざるも事情決し
て無理ならざるなり左ればにや本年のコレラは京都大阪等窮民輻輳の都會に先づ其根據を
占め追て蜂の巣を覆へしたるが如く一時に其毒を近縣に吹散らし氣候の暑熱を加ふるとし
もに日に其勢威を増し向ふ所前なき有樣なり六月の中旬にして既に斯の如し是れより漸く
七八月の炎暑に際せば遂に滔天の勢を成すやも知るべからざるなり從來東京は窮民の最も
多き所人口稠密なる市部の如き平日の衛生法最も不完全にして用水惡水汚穢物の始末等實
以て言語道斷なるものあり尋常の年にてもコレラの特發を免かれざる有樣なるに今年は去
年該病流行の翌年と云ひ頻年不景氣の後と云ひ又大阪地方流行の甚だしき折柄と云ひ尋常
人力を以て果して能く東京市中にコレラの侵入を防禦し得べきや如何極めて難問たるに相
違なきなり若し不幸にして一旦此東京をコレラ流行の修羅場に變ずることもあらんには其
病毒を四方に傳ふることの速かなる固より京都大坂の比にあらず必ずや水の堤を決し火の
野を燎くの勢あらん既に斯る見込のありとすれば豫防法〓(手偏、儉のつくり)疫法等の
果して實際に奏功の有無を爭ふに及ばず唯先づ人事を盡して天命を待つと覺悟を定め必死
の力を防禦に盡して必ずしも成敗如何を問はざるの外に工風なからん斯の如く覺悟を定め
て嚴に豫防法を施行するに於ては市民必ず其煩に堪えずして苦情百端なるべきや疑を容れ
ず多數の中には或はこれが爲めに容易ならぬ迷惑を蒙る者も出來るに相違あるまじといへ
ども社會一般の幸福の爲めにはこれも亦顧るに遑あらず豫防の寛に失して悔を後日に遺さ
んより寧ろ嚴に失して今日の安心を求むるに如かざるべし物先づ腐敗して蟲これに生ず日
本人民頻年先づ惡衣惡食してコレラ來る我輩は今年の病勢の極めて劇烈ならんことを恐れ
て止まずといへども最早此塲に臨みて過去の事を語るの餘閑なし唯力の及ぶ所を盡して成
る丈け害惡を輕くすることを勉めんのみ