「米麥作を斷念す可し」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「米麥作を斷念す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

英國總理大臣グラッドストン氏は、曩きに愛蘭土地買上議案を提出し、英政府新に二億磅の公債を募り、此

金を以て愛蘭の地主より土地を買上げ、其土地を二十箇年賦にて愛蘭土民に責り渡さんとの旨趣を公示せしが、

是れは破天荒の策に非ず、波蘭人の囂々たるに當りて獨逸政府が此策を試みんとするの例を示して、グラッドス

トン氏も蓋し亦其故智を襲ぎたるならんとの説あり。斯くて英國人中には此策を非として駁撃するもの少なから

ず。或は右の議案にては土地買上に應ずると否とは、一に地主の隨意に任じて之を強迫せざる筈なれば、一朝之

を實施するも、地主若し其買上に應ぜざれば有名無實、折角の計畫も空しく畫餅に歸すべしと云ひ、或は地主が

足元を見て法外なる地價を申出し、政府と土民との間に在て地主獨り好膏血を吸収するならんと云ひ、或は土地

を與ふるも土民の不平は収縮す可らず、若かず二億磅の金を以て悉く不平の土民を買上げ之を濠洲に移さんには

と論ずる等、異論紛々たる其中に就て、最も有力なる一説と申すは、近年北亞米利加各地にて農耕の事大に進歩

し、其餘響の大西洋を踰えて愛蘭に波及するの事實、卽ち是なり。抑も北亞米利加の地たる沃野千里、杳として

其際涯を知らず。曠郊の行客、四望地平線に劃られ、到る所、月の原より出て又原に入るを見ざるはなし。近年

勇敢冒險の徒、深く内地に入り、大に農耕の業を務るに、天惠地福、雨露の恩淺からず、一莖十穗、奇穫實に望

外なるを見て、資本家は農耕の其資本を投ずるに足るの業たるを知り、安心して農業に放銀するの風を生じたり。

是に於て大に農夫の不足を感じ、文明日進の農具を使用し、蒸汽機關を隴上に据付けて大仕掛の耕作を開きしか

ば、一人にして往々數十エークルを耕耘し、其収穫亦少なからず。目下合衆國は申すに及ばず、英領カナダにて

も農耕の進歩駸々たる其際に、鐵道日にますます延長して、農作物を内地に運搬すること頗る便に、之を海外へ

輸出せんとすれば汽船の交通織るが如く、北亞米利加より大西洋を橫ぎりて農作物を英蘭に運送すると、愛蘭の

作物を英蘭に運送すると、其難易些ばかりも違はざる程なれば、愛蘭の人民は勢其影響を蒙らざるを得ず。試に

愛蘭人の地位に立て考ふるに、グラッドストン氏の土地買上議案、果して通過し、二十箇年賦にて其土地を農民

に賣り渡すとするも、之を愛蘭全國に配當すれば、一人の割前幾エカル(原案は一戸に付き三エカル卽ち日本の一

町二反歩餘なりと云)にも當らず。割前少なければ所謂深耕易耨の人工を盡して圃中に一莖の雜莠をも交へず、

地の面積に比較して其収穫多額なる可しと雖ども、之を天然の沃野に耕して無盡藏を開拓するものに比すれば、 

其利益の多寡固より同日の論に非ず。左れば愛蘭の麥作は北亞米利加の農作物に壓せられて之れと競爭する能は

ず、今日の儘にて經過せば、愛蘭人民は土地買上議案の庇蔭に因り若干の土地を與へらるゝも、爲めに其貧困を

醫するに由なく、遂に其土地を典賣して之を舊地主の手に奉還すること必然なれば、グラッドストン氏の土地買

上議案は結局其效益の長きを望む可らざるが如しと云ふ。

右の動議は果してグラッドストン氏の土地買上議案を破碎するの力ありや否は本論の關する所に非ざれども、

此動議中北亞米利加の農耕大に進歩し、地味の然らしむる所、特に小湊の収穫に富み、之を内外に運送するの容

易なる、大西洋を橫ぎり英蘭の目前に於て愛蘭の農作物を壓倒するの事實あるは、我輩の讀者と共に看過す可ら

ざる所なり。今の交通の便利なる、大西洋は溝渠に均しく、太平洋も亦一葦水に過ぎず。然るに今北亞米利加の

農作物は大西洋を隔つる愛蘭を壓倒せんとするの趣あれば、太平洋を隔つる日本の麥作者を蹂躙するも蓋し亦遠

きに非ざる可し。現に今日の我國に於ても、麵包を製造する小麥粉は米國産の廉價にして且つ良質なるに若かず

との評判にて、其需要ますます增加するの勢あり。卽ち今後我國の麥作は北亞米利加産の壓倒する所と爲り、麥

の供給は一に之を東隣に仰ぐの得策なるを見るに至らんこと、我輩の豫め信じて疑はざる所なり。                                                        〔六月二十一日〕