「劇場改良の説」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「劇場改良の説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

劇場改良の説

文明國の都會には劇場あり其塲の規摸の大小、其俳優の〓の〓〓は國の文野、都人士の好

尚如何に存することあるとも要するに都會の壯觀にして一廉の裝飾なるは固より疑を容れ

ざるなり左れば我東京府にても追て市區改正を實施するに就ては劇塲の位置規摸等に注意

せざる可らず佛國にてナポレオン三世が巴里府の市區改正を施行したる折には重も立ちた

る劇塲を一所に集めて梨園の美觀を耀かすの計畫を爲し英國倫敦府にても自然の便宜に因

りてか劇塲は重もにストランド街邊に群集するものゝ如し東京の市區改正に就ては劇塲を

一所に集めんとするか或は從來の儘に任じて各所に散在せしめんとするか其邊の趣向は我

輩の知る所に非ざれども世事文明の進歩に連れて外國人も追々内地に入り込み都城の遊興

を追ふて劇塲を窺ふもの多かるべく今後亞細亞博覽會を始め其他外國人の來遊を促すの機

會ある毎に遊覽の目的を以て我國に來るものは日本の演劇を目撃して他年の談柄に供す可

しとて我國の演劇が外國人の眼に觸るゝ機會はますます多かるべきが故に梨園社會の爲め

に謀れば今後劇塲の規摸を大にし演劇の仕組及び諸道具向きを改良し俳優の技藝を發達す

るに加へて其位地をも進むること甚だ肝要なりと雖ども事務改良の成敗は概ね資本の有無

に歸せざるはなし資本爰に備はれば劇塲と改良して見物人の耳目を悦ばしめ兼ねて又都會

の盛觀を添ふること左程困難なるにも非ず而して其資本を得ることも亦甚だ容易なる可し

と雖ども今日の事情に於て然る能はざる所以のものは他に非ず元来日本の俳優なる者の本

源を尋れば多くは河原乞食の發達したるものにして殊に武門全盛の時代に當りて世に賤し

められたることも亦甚だしく彼等の先人は人の門戸に立ち或は通行人の憐を乞ひ其技を售

りて其口を糊したるものなるが漸く其仕組を變じて所謂芝居の体裁を成し技藝も次第に上

達して遂に今日の劇塲を組成するに至りたるなれば其漸次に發達する間に技藝を授受する

師弟の關係、家名の傳授等其由緒特別にして一團の社會を組織し今に至るまで昔しを忘

るゝこと能はざる故にや教育其宜きを得ず智識學問甚だ乏く隨て社會に對して其位地極め

て卑し位地卑きが故に身の責任甚だ輕く技を售り媚を献ずるの其本色たるは申す迄もなく

甚だしきは世間に不評判なる婦女子の玩弄物たる等其社會一帯の空氣何となく高尚ならず

又清淨ならずして心ある人は之を近づくることさへ〓(こころよ)しとせず其中の俳優等

が無頼贅費を事とし、あれば有るに任せて費し一たび酔飽し去りて常に寒貧なるは言ふに

足らず此劇塲の會計出納に關る者までも亦俳優同輩の人品にして任侠豪放を事とし大入な

れば得々贅費して烟と爲し、客なければ忽ち困難に陥る其最中に無用の縁故類族の者共は

尚ほ餘澤に霑はんとして周圍に集り積年の習慣これを拂はんとして拂ふ可らず夫れ是れの

事情の爲めに會計は常に散漫にして収拾す可らず借金層々相重なりて會計の當局者は此借

金の〓(衣偏に因・しとね)に坐して一たび劇塲を開けば其〓(しとね)も又一枚を加ふ

るの趣あり左れば爰に新狂言を仕組んで劇塲を開かんとする其都度に先づ金を借らざる可

らず此時に當り世の金主は劇塲借金の山甚だ高きを望見して危險近づく可らざるを知り容

易に其募集に應せず或は奮て之に近づく者は恰かも虎穴に入るの勢にて元金の一命を賭す

る代りに其利子非常に高く開劇一箇月内外の間に凡そ何割に相當するが如き貸方ありとい

ふ斯くて辛うじて元利を取立つることを得ば殆んど虎兒を獲たるの觀ある可し金主の爲め

には一種の仕事なれども如此にして劇塲の會計に餘裕を見んとするは迚も望むべからざる

事なり

右の次第なるが故に今日の實際に於て演劇ほど儲かるものはなけれども得失常に相償ふこ

と能はず若し今日の成行に任ずれば劇塲を改良して帝都の盛觀を添へんとするなどは思ひ

も寄らず仮令へ俳優の技藝は巧にして其人品も亦漸く高きに進む者あるも會計の病は演劇

塲の膏盲に入りて復た醫す可らざるものゝ如し左れば今この病を一掃して健全のものたら

しめんとするには會計の組織を改革すること固より肝要なりと雖ども然れども從來の跡目

を受繼ぎ此を彌縫せんとするは所謂姑息の治療法にして左支右吾迚も目的を達し難きは人

事自然の勢なる可ければ爰に斷然一決し從來の劇場は今日限りに分散して先づ借金の筋道

を立て身代限りを爲す可きものは速に爲し幾百年來河原芝居に伴ふたる積弊宿外を一掃し

俳優も其心事を改革して自から其身を重んじ會計の當局者も劇塲を以て確實なる事業と爲

し儲けたる時の餘裕を以て損したる時の不足を償ひ規模を大にし趣向を新にせば庶幾くは

日本に文明の劇塲を見るに至らん我輩の見んことを樂しむ所の者なり(未完)