「劇塲改良の説前號の續」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「劇塲改良の説前號の續」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我輩は我國劇塲の改良せざる可らざる次第を陳じて扨て顧みて其俳優社會を見渡せば更に

又蹙額せざるを得ず一概には言ひ難けれども西洋諸國の俳優中には相應の學識を具へ肉體

精神の働を外面に發表するにしんり生理の學速に照らすものなきに非ず世間の人も此流の

人物を見て畫工小説家等と同功の者なりと爲すが故に俳優社會の品格自から高く隨て劇塲

の地位も高くして恰も貴女紳士會同の席となり彼の紳士が燕尾服を着用し貴婦人が帽を脱

して見物するが如き直に俳優に呈するの禮儀にあらずとするも自から演劇の塲所柄を重ん

じて觀客相互に慇懃の意を表するものより外ならず之に引替へ我日本國の俳優は社會に對

して其地位甚だ卑く位地卑きが故に身の責任も亦甚だ輕く其仲間一帶の空氣自から汚れて

社會上流の貴女士君子は其人を近づけず唯これを幇間藝娼妓の間に置き名敎外の輩なりと

爲して捨てゝ顧る者なし左れば下等の觀客中には向ふ鉢巻諸肌脱ぎの無禮を冐すあるも之

を咎る者なく上流芯ある人物にても俳優の藝をば見物すれども其人と爲り知りて其技藝を

尊敬するに非ず其これを見物するや俳優は活物なり人形は死物なり活物の活動は死物の運

轉よりも面白しと云ふ位の品評にして之を度外に置き遂に今日下流婦女子の觀具と爲りた

るは俳優無識の罪居多なりと云はざるを得ず又一方を顧みれば彼の戯作者として狂言の趣

向を案ずるものも亦甚はだ淺薄無識にして固より日進文明の考なく滿腦の想像畫は其摸範

を封建時代に取るが故に勸善懲惡の趣旨皆な儒敎主義より來り孝子の孝は敵討に由て現は

れ、忠臣の忠は切腹を以て著しく、美人薄明、才子落魄、奸臣顯はれて寶物を匿し忠義の

士ありて之を詮索する等劇塲に叫喚奔走するものは悉く封建時代の遺物にして今の文明世

界の人を樂ましむるに足らず開化の世事にはあられもなき瑣細なる事に人の命を捨て、此

處に死神の亡靈出づれば、彼處に金毘羅の御利生現はれ、切腹したるものが一時間にも渉

る長物語を爲す等正旦淨丑何程に愁嘆塲を演ずるも我々は俳優が自から信じて眞面目に斯

かる兒戯を演ずるかと思へば餘り馬鹿らしきまゝ呆然として其愁嘆を感ずる能はざるなり

盖し我國にても古人は此邊に着眼して説を作したるものなきにあらずと雖ども人文未だ開

けず思想簡単にして感覺遲鈍なる世に在ては悲歡哀樂その極端を示すにあらざれば人を動

かすに足らず、極端の馬鹿らしきものにあらざれば面白からず、若しも強ひて其趣向を變

ずれば八珍の料理に鹽噌を除きたるのに等しく無味殺風景なる可きが故に止むを得ず舊套

を襲で遂に今日に至りしことなれども今や日本は舊日本にあらず西洋文明の主義は有形無

形百般の世事を支配して人の思想も次第に繁多にして隨て緻密なる時勢に赴きたれば演劇

の仕組も此時勢人情に從て大に面目を改ること當然の順序なる可し觀客の面目は漸く改ま

りて演劇の面目は依然たり事の順なるものに非ず左れば最早今日にしては金比羅の御利生

怨靈の怪異等を省くは勿論、少しく人事に近くしても忠臣が君のために切腹するの代りに

志士が國のために獨立の正義を唱るなどの趣を演ずるか或は男女の關係なれば道行情死欠

落等直接に肉交の痴のみを語らずして進んで情交の優美温潤なる姿を寫す等兎に角に今の

開明の風潮に伴ふて相戻らざるの工風こそ專一なれ即ち演劇の改進にして啻に社會のため

に願ふ可きのみならず當局者たる作者又俳優の身のためを謀りても末代の榮譽なる可きな

劇塲に於て觀客を泣かしめ笑はしめ悲喜交も交も至り身其實境に接して其實物を目撃する

の想あらしむるは俳優の技倆の巧拙如何に或ること固より言を俟たざれども諸道具の配置

宜しきを得て野景なれば遠山近樹の風致其眞に逼り屋内の模樣なれば器具陳列品等の工合

實際を寫し觀客をして身を其境に置くの想あらしむること肝要なり西洋の小説家が旅客路

に迷ふて賊の巣窟に踏み入る抔の趣を叙するに深山幽谷の模樣を寫し途上の景致を寫し尚

ほ其眞に逼まることを期して實地に就き幽谷の草木花卉等を取り調べ之を記して喝采を博

したることありし由なるが演劇に於ても亦工夫なかる可らず先年英國倫敦府の演劇を觀た

る人の話に狂言の趣向は姑く置き當日最も目新しかりしは野景の一齣にして樹陰深き處に

一橋あり橋下の飛湍白沫を噴き村外望斷ずるの邊に尖塔の樹梢を出づるあり遠近度に合ひ

て觀客の神魂既に野外に在り斯くて遙か隔りたる岡阜の上に一頭の鹿の横臥するあり觀客

視て以て畫中の物と爲せしが既にして鹿は運動を始め豆人寸馬の間より次第次第に舞臺の

前面に歩し來るを見れば器械的の物に非ずして手馴らしたる生鹿にてありしと云ふ我國の

演劇にては俳優の運動を專一として舞臺の景致に意を用ること尚ほ未だ至らざる故に興味

索然役者の絶技も其光彩を放つこと能はざるなる者多きは甚だ遺憾なりと云ふ可し此等の

欠典を求めて今の劇塲を改良せんとすれば種々の方案ある可しと雖ども先だつものは資本

なり此資本を得んとすれば借金芝居の弊風を一掃して新劇塲を開創せざる可らず我梨園の

當局者は果して此覺悟ありや否や苟も此覺悟あらば我國の劇塲を改良して都會の壮觀を添

ふることも亦至難の業にあらざる可し (畢)