「鐵道の賃錢如何昨日の續」

last updated: 2021-12-25

このページについて

時事新報に掲載された「鐵道の賃錢如何昨日の續」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鐵道運送の賃錢低落せざれば汽車も亦唯一種の奇器にして商賣世界の實用を爲すに足らず

との大意は前節に之を陳べたり然りと雖ども鐵道を敷設するも素と商賣の事にして其目的

は利を得るに在り賃錢高くして商賣世界の實用を爲さずとて之を引下げたらば運送を依賴

する荷主商人のためには甚だ妙ならんと雖ども鐵道を作て利を得んとする商賣のためには

甚だ不都合な利益なき事業は世に起る可らず鐵道の起らんことを祈りながら其利益の少な

からんことを願ふとは取りも直さず鐵道事業の發生を抑ふるものに異ならずとの説あり自

から一説なれども事の前後に注意して少しく勘考するときは又大に然らざるの道理を發明

することある可し其次第は前にも記したる如く賃錢低くければ乘客荷物の數を增し數々こ

なすの利益は存外に大なる可し近くは東京市中の鐵道馬車にても創立の當分は一區の賃錢

三錢にして隨分乘客も乏しからざりしかども馬車會社の〓意にて之を二錢に下げてより客

の群集は以前に倍し會財の點より見れば今日の利益は賃錢三錢の時代に比して更に增した

りと云ふ價を減じて利を增すの事實爭ふ可らざるなり又都くの商賣に仕組の大小ありて利

を見るの日を一樣に期す可らず少々の元手にて少々の商賣する者は目下の金融に忙はしく

して永遠の大利益を望む可らず當然のことなれども幾巨萬の資本に據りて大仕掛に業を起

す者は起業の初より利を見る可らざるは無論、時としては開業の後も収入少なくして出入

相伴はざる部分をば資本の内より持出すことあり唯その期する所は營業幾年の後、内の組

織も成り外の事情も定りて商機の運點整然たるの日に在るのみなれば夫れまでに費したる

資本は或は之を創業入費と云ふも可ならん今の世間にある銀行なり諸會社なり其創立以來

の計算を見たらば大概皆同樣なる可し左れば鐵道の事業は最も洪大なる仕組にして其資本

に對するの利益は固より確實なりと雖ども右より出だして直ちに左より入るを待つ可から

ず創業の工事着手の日より成工の時に至るまで曾て利益ある可らざるは無論、工成りて業

を聞きたる後も所得所費を差引すれば収入は至極緩慢なるものならんなれども唯期する所

は幾年の後に在るが故に其當局の人は特に此邊に注意して開業の初に當り仮令へ或は出入

相償はざるの事情あるも决して之に驚くことなく勇を皷して進歩し以て事業の大成に達せ

んこと我輩の冀望する所なり即ち其勇進の一箇條と云へば何れの地方にても新に鐵道を敷

設して交通運輸の新道を開くときは其傍に伴ふて不完全なる舊道ある可きは必然の數なり

例へば東京と橫濱との間に鐵道成るも舊東海道は依然として存し京阪神の鐵道相通ずるも

淀川大坂灣の水は尚ほ交通運輸の媒介たる可し扨この舊交通の法たるや固より不完全至極

のものにして陸上の車馬、河海の船、これを新成の鐵道に比すれば其便不便年を同うして

語る可からず、東海道の小荷駄人力車淀川の三十石、安治川兵庫の夜船等が鐵道汽車と併

立す可きの道理は萬々ある可らざるに似たれども凡そ世の中に有力なるは習慣の右に出る

ものなし習慣に由て行へば殆んど不可思議の成跡を得ること古今の常なり左れば今彼の小

荷駄人力車三十石夜船の類も鉄道の大敵に逢ふて容易に跡を絶たず苦しき中にも其餘喘を

保つは多年の習慣に由て然るものなりと云はざるを得ず之に加ふるに我國の人事は都て緩

漫にして時刻を爭ふこと劇しからず時と金とを比較して金を重しとするの風なれば汽車の

功用も尚ほ未だ其本色を現はすに至らずして時としては人力車又は夜船を以て却て汽車を

凌駕するの奇觀なきに非ず即ち人力車の賃錢に汽車並と云ひ小荷駄の荷車の賃錢やすきが

ために鐵道に荷物少なしと云ふが如きは其實例として視る可し故に今鐵道のために永遠の

利益を謀れば其開業の當分に利益の少なきを恐れず出入相償はずして幾分の持出しとなる

も大に其賃錢を引下げ流石に舊交通の舟車小荷駄等が何程に勉強苦痛するも迚も汽車には

抵抗す可からざるものなりとの勢力を示して彼等をして一時に落膽せしむること最も上策

なる可し斯る勢に立至るときは如何に舊習慣の頑固なるあるも舟子も車夫も馬子も差向の

衣食に窮するがために止むを得ず何か他の仕事を求めて之に轉業せざるを得ず既に其業を

轉ずれば舊來の舟も車も馬も不用に属して其地方に消滅するのみならず其通行す可き道路

も荒廢し川筋舟付の模樣も變じて復た用ふ可らず苟も交通運輸と云へば鉄道の外に依賴す

可きものなきの有樣と爲る可し即ち交通運輸の全權を占るものなり既に全權を占めたる上

は其事業の繁昌して収入の多かる可きは無論、若し或は出入相償はざるときは賃錢を引上

るも可ならん此時に至ては舊交通の物も人も既に已に其地方に跡を絶ち漫に競爭する者あ

り可らざればなり例へば今の東京より神奈川までの道路も汽車の賃金さへ低落すれば先づ

不用のものにして狹き村路と爲り、東京灣の上荷船も大概は不用に歸す可し大坂と堺との

汽車が下等〓〓と云へばこそ人力車も所謂汽車〓四錢にて驅けることなれども若しも汽車

賃が二錢に下りたらば流石に人力車も閉口して業を廢し舊堺筋には人跡車轍を絶て道路に

草を生ずる歟又は農民の作道に變化して此街道に人力車又荷車の業を企る者なかる可し即

ち京濱阪堺の鐵道に交通の全權を占めたるの日なり即ち鉄道事業の始めて大成したる時に

して此時より始めて確實なる収入あるものと知る可し

以上に開陳したる鄙言果して是ならば目下鉄道の會計簿に利益の少なきを見るも驚くに足

らず本來鉄道は陸上交通の王なり王權の下、豈他の小交通を許さんや舊習慣を顧みず細事

情を問はず其根底より之を一掃して交通王の本色を現はし以て永遠の大利益を期すること

我輩の特に冀望する所なり        (畢)