「日本國人將さに宗教の門に入らんとす」
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本文
日本國人將さに宗教の門に入らんとす
日本國人は宗教の事に淡泊なりとは皆人の言ふ所にして事實に相違もあらざるなり然れど
も日本に宗教のなきにはあらず佛教とて嚴然たる宗教の國内に存在すること久しく流行も
中々盛んなりといへども兎角其流行の區域を教育の乏しき男女の仲間に限りて遂に上流社
會の人に及ぼすこと能はざりしなり其原因は佛教の性質にもあらん又國民の氣風にもあら
ん扨その佛教中禪宗など唱ふる類のものは餘りに人間社會より縁遠く其當局者たる僧侶等
は一種の仙人風流人とも評すべき程のものにして此人々が宣布する所の宗教なれば其奥義
の如何を問ふに遑あらず一見先づ人間に無用視せらるゝは是非もなき勢にして殊に宗義に
於ても獨り自から脩めて俗縁を離脱するを尚ぶが故に益俗人に厭ひ嫌はれ無用の人の外は
絶て此等の宗門を窺ふ者なしこれに反して彼の一向宗など唱ふる類のものは專ら其宗義を
通俗にし又下品にし只管愚夫婦凡俗の意向に投合するを勉め事として簡易ならざるなく又
卑俗淺薄ならざるなく他力の信心を説ひて信者を安堵せしめ僧侶自から佛教の舊慣例を破
りて肉食妻帯し法脉を世襲して寺を家とし以て俗に混ぜんとするの類の如き其宗義の奥に
は必ず高尚なる説もあらんなれども廣く十萬世界の人目に映射する所にては何分にも玄未
微妙の觀を爲す可らざるのみか近年に至りては僧侶の風俗も甚だ宜しからず念佛一偏の老
僧輩は次第に老朽して仮令へ佛者の本色を維持するも唯一身の内に止まるのみにして此輩
より以外苟も宗派全体に向て勢力ありと稱する者は一向に世事に奔走して濁流に浮沈し時
としては俗世界にもあるまじき程の醜を犯すものさへ少なからず之がために無識下等の男
女の中には此宗派の聲望尚ほ日に盛んなりと雖ども聊か身に教育學問の嗜みさへある人々
は未だ宗義の奥を窺はず先づ其俗臭醜聲を厭ふて之に感服する者なきが如し斯の如く日本
の佛教中其古雅なる門派は餘りに古雅に過ぎて世俗に疎外せられ其通俗なる門派は餘りに
俗味俗臭に過ぎて識者に厭はれ共に其勢力の根據を社會上流の部分に占むること能はずし
て遂に日本國人は甚だ宗教に淡泊なるの事相を成したることならん併しながら若し日本に
適當の宗教なくして國民の心を宗教に向はしむるに足らざりしとならば人情の自然に於て
他に相應の宗教を求むべき筈なるに一向に去る樣子もなく竊かに宗教を度外視し無知の信
徒を愍笑し泰然世事に當りて惑はざりしは甚だ不思議なる事相の如くなれども我輩の見る
所を以てすれば大に其理由なきにあらず即ち此日本國は數百年來武門専制の治下に在りて
封建制度の骨髄たる主君の爲めに一命を抛つの一義は心魂に徹して忘るゝこと能はず農工
商民の類直接に武士に關係なき者までも半は武門の暴威に畏れ半は全社會の空氣に酔ひ知
らず識らず其心身を封建の良民たるに最も適合するものと爲したるがゆゑに全國の人事全
く其面目を改めて一事の封建制度外に逍遙するものなきに至りたり是に於てか教育知識あ
りて道徳の何物たるを辨識する人々も其安心を宗教に求めずして直ちにこれを封建主義中
に求め主君への忠義とか武士の面目とかいふ事を以て宗教に換用し十分に我安心を定むる
の餘地を得たるは日本固有の奇相にして古來日本國人は宗教に淡泊なり、無宗旨なりとの
評を得たれども其實は日本社會に宗教なかりしにはあらずして別に宗教に代用すべき一物
ありて能く人心の秩序を維持することを得たるがゆゑに然りしのみ
然るに明治維新の一擧日本の封建制度顛覆して痕跡を遺さず社會上流の人々は忽ち我道徳
安心の根據を失ふて其方向に迷ひ浮萍行雲も啻ならず幸に封建の日を距る未だ遠からず尚
ほ世に存命する老成人等の依然封建主義の道徳説を維持するありて曲り形りにも今日文明
世界の徳義を支ゆることを得たりといへども老成人は日に世を去り新文明人は日に成長し
封建の臭味日に消滅して日に社會の進歩を促す折柄我日本國人は道徳安心の根拠なく世事
に當りて忽ち其往く所に惑ひ進退維谷まるの塲合あるべきは無論の事にして其心中の淋し
く心細きは譬ふるに物なからん是即ち日本國人が宗教に入るの初機にして目下既に大に其
兆候の見るべきものあり今より多年ならずして日本國人も亦他の國人同樣必ず大に宗教に
熱心するの人と爲るべきは我輩が今日之を豫言して決して誤まることなかるべしと信ずる
ものなり果して然らば自今日本國人が漸く宗教の門に入るとして其撰ぶ所の宗教は孰れな
らんかといふに我輩の見る所を以てすれば今の日本の佛教が今の面目のまゝにしてある限
りは所詮この選擇に入ることは覺束なき事ならんと信ずるの外なし禪宗の流は仙人宗措て
論せず、下等社會に勢力を有する一向宗の流も通俗は通俗なれども寧ろ甚だ俗に過ぎて識
者の尊敬心を喚ぶに足らず日本國人は既に封建世襲の非理を悟りて之れを廢したり然らば
則ち其封建制度に摸擬して組織したる宗教を見て同樣の感を起す可きも亦自然の約束なら
ずや日本人は既に知識を世界に求るの必要を悟りて文明の進歩に汲々たり文明進歩すれば
愚夫愚婦の區域は日に縮小せざるを得ず即ち一向宗の流は日の其領分を失ふの姿なり爰に
領地を失ふ者あれば新に領地を開く者ある可きや必然の數にして今日その邊に注眼して經
營する者は彼の西洋の耶蘇教なりと明言して可ならん佛教中果して人物多くして能く其教
の舊弊宿害を拂ひ以て新面目を開く者あるや否や耶蘇の教師能く日本國人の氣風を解し機
に投じて新地を押領うるの大業を成す者あるや否や我輩は宗教外に居て之を見物せんと欲
する者なり