「米は損なり」
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時事新報に掲載された「米は損なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
米は損なり
健康なる身体に健康なる精神あり國民の身体精神健康活溌にして始めて以て文明の事業に
堪ゆることを得べし日本人の常食とする米の飯は滋養分甚だ少なくして迚も人体を維持す
るに足らず日本人にして米の飯に依頼して世に生存する限りは文明世界に立て優勝劣敗塲
裏の競爭に勝を制するの望なし故に我輩は日本人の米食を廢して肉食に改めんことを希望
して措かざるなり米は元と熱國澤地の産物にして日本の如く氣候温冷地勢高燥の塲所に蕃
殖すべき品物にあらず然るに日本人は古來如何なる因縁にや無理に此米を不適當なる日本
國に植えてこれに生命を依託せんとしたるがゆゑに高燥美麗の原野を變じて卑濕汚穢の稻
田と爲し雨水疏通船楫運搬の用に供すべき大小の川々に堰を作り底を高くして故らに年々
の水害を招き土地財産を流失する其損害勝げて計るべからず殊に近來漸く文明の進歩に速
力を加へ鐡道の敷設を急ぐに當りて最も大なる妨害を爲すものは此不規則なる大小の川々
にして唯此川々が稻田供水の用をさへ廢する時は再び世間普通の順良なる川流に復して國
土を汚損せず文明の進歩を妨げず永く國の大用を爲すべきなり故に我輩は稻田を廢せんこ
とを希望して措かざるなり又稻田を耕すの利益は桑を植えて蠶を飼ふの利益に及ばず稻田
一段歩米の収穫は地味の良否によりて一樣ならずといへども日本全國を平均して平年一石
二三斗を以て定めとす仮りに之を一石五斗の平均とするも一段の利益六圓相塲の米にて十
圓に足らず然るに此一段の田地に桑を植え其桑にて蠶を飼へば平均一石の繭を得然れども
これも亦成る丈け内端に見積りて一段八斗とすべし繭の相塲も時によりて一樣ならざれど
も近年の景况にては先づ八斗二十圓の價あるものと見積りて格別の間違ひはあるまじ米を
作れば一段九圓の手間賃を得桑を植え蠶を飼へば二十圓を得べし今の世界に在ては國も人
も錢なくては立行かず故に我輩は稻田を〓して桑田を起さんことを希望して措く能はざる
なり此等簡單明白なる理由の在る有るが爲めに數年來我輩は時に臨み機に應じて我時事新
報紙上に桑を以て米に換ふるの利を説いて止むことを知らず過日も亦愛蘭土地買上案の論
議あるに際し米麥作の不利なる次第を日本農民に告ぐるの必要なるを感じ「米麥作を斷念
すべし」と題してこれを六月廿一日廿二日の時事新報に掲げたるに兼て我輩の敬愛する中
外物價新報は本月一日二日の紙上に「米麥作は決して斷念すべからず」と題して大に我輩
の意見を攻撃し無稽の妄論なり不深切なる漠然論なりとまでに非難したり我輩不敏なりと
いへども斯る非難の言を默して受納する譯にも行かず殊に中外(中とは日本といふ事か)
物價新報などあれば其名前の上丈けにて先づ世人を瞞じて其商賣上の意見甚だ正確なるを
疑はしむるの掛念なきにあらざるが故に爰に聊か物價記者の意見の甚だ不正確なる所以を
辨ずることとはなれり但し物價記者が二日間に亘るの議論は再三通讀すれども首尾關係の
甚だ不分明なる所多く兎角一氣に其要領の點を駁するの工風を得ざるが故に唯記者が米を
賛成して桑を擯斥するの眼目として提出したる者と覺しき箇所箇所に就き切れ切れに我輩
の説を附すべし
中外物價新報曰く
試に見よ我が日本の土地は如何なる成立ちなる歟を凸凹極りなく隨て其農産物も所に由
り大に其種を異にし其高き所には桑、茶、麥等の如きものを植付け、其卑き所には自然に
米作を仕付るに及びたるものにて今日の稻作は多く卑濕の水田に仕付け桑樹は高燥の土地
に植付け彼此自ら其地味風土を殊にせるにも拘らず無暗に桑樹を卑濕に稻田に移植して其
利を見るべきや如何、言を要せずして其不利たるや明かなり、故に我が日本狭しと雖ども
土地柄に由て其産物に適否の別あり隨て収利の多少もあれば農夫愚なりと雖ども利の存す
る所ろ古來自から之が區別を立て例へば上、武、甲、信、等の地方は高燥なるを以て遠き
昔よりして養蠶に從事し其他奥羽北越等の地方にても高燥の土地には桑を植へ卑濕の塲所
には稻作を爲す等各々其風土地味に由て農作物を異にせるものゝ如し云々
如何にも物價記者の説の如く土地柄にて産物の適否あり蓮池に大根は生えず南瓜畑に山葵
は出來ざること固より明白の事なりといへども稻田と桑田とは左程に縁の遠きものにあら
ず唯極端の幾部分を除くの外は今の日本の稻田にして變じて桑田と爲られざるもの先づ絶
無なりと申して差支なかるべし何となれば元來我日本の地勢たるや山高くして海近く水の
疏通甚だ迅速容易にして人工の妨げさへなければ國中に卑濕汚泥の地區を見ること極めて
少なかるべき國柄なればなり何故斯る美質の國土に卑濕汚泥の地區多きやといふに全く封
建割據の餘弊遺習にして往時國を鎖し封を守るの日に當りては狭き日本國に三百の小天地
を作り一天地に籠城する兵糧はこれを他の天地に依頼すること能はず是に於てか諸藩皆競
ふて稻田を開拓し河流を堰ぎ留め水なきの地に水を行り泥なきの地に泥を深くし稻田用水
を愛護すること人間の生命も啻ならず稻田に桑などの如き不急用品奢侈品を作るは諸藩の
法律の嚴禁する所にして少しも耕作の自由を許さず唯東北山間の國々は冷氣甚だしく熱帯
の植物たる米を作るの工風なきがために止むを得ず桑を植ることを許したるものなり故に
封建の夢に慣れたる日本人等は物價記者と共に桑田養蠶は寒國の事にして暖地の地味氣候
に適せずと思ひ居たるが何ぞ圖らん開港以來生糸の需用大に増したるが爲め中國九州邊に
て近年試みに養蠶を始めたるに當局者等の萬事尚ほ甚だ不熟練なるにも拘はらず到る處最
良の結果を得て追ひ追ひは東北地方の舊養蠶國をも壓倒せんとするの勢ひあり此實例を見
て物價記者を除くの外は世人皆從來の迷夢を覺し今日まで養蠶を寒地の者と認め居たるは
大なる間違ひにて從來の變相は全く封建制度人爲の壓倒によりて然りしものなりとの事を
合點したり今や日本には封建制度なく農業商賣一も自由自在ならざるもなし斯る目出度時
勢に際し尚ほ何を苦んで有害なる稻田を耕すの愚を維持せんと欲するにや事理を辨ぜざる
の甚だしきものといふべし畢竟我輩とて利害得失に關せず全國唯桑のみを植ゆべし他の穀
類菓樹蔬菜を耕作すべからずと申すにはあらず沼地水に餘りあるの所これを埋立てゝ桑を
植えんより依然稻を植る方便利ならんこと固よりなり全村青々たる桑田を見る中に所々に
麥畑あれば豆畑もあり葡萄棚もあり蜜柑林もありて土地の状况に應じ十分に利益を収むる
の工風を爲すべきこと固よりなり殊に養蠶事業は勞力の最も活溌急劇なるものにして俄然
として始まり俄然として終る其間僅かに四五十日を出でず唯此四五十日を終れば他の桑田
培養等の事は殆んど論ずるに足るほどの勞なく寧ろ終年無事に苦しむの實なきにあらず則
ち此餘力を以て終年間斷なく利を収むるの工風を爲すこと甚だ大切なるがゆゑに或は三反
歩の田地に其二反丈けは桑を植え他の一反には穀類なり菓樹なり最も適當のものを擇んで
これを植付け結局三反歩の地面を最も有利に使用せんとするは當局者の方寸に在て存すべ
きことならん唯我輩の希望する所は從來の如く米を日本農産物の首座に置かずしてこれを
末座に引下げ桑をして代て其首座に就かしめんとするに在るのみ米を食ひ水を飲み濁酒に
酔ふて肱を枕とし桑田養蠶の利の大なるを忘るゝが如きは抑亦無知の甚だしきものなりと
信ずるのみ(未完)