「米は損なり昨日の續」
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時事新報に掲載された「米は損なり昨日の續」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
中外物價新報又曰く
昨年の如く甚しき飢饉説ありて一時正米七圓五六十錢に昇りたる時にても米の輸入高は
僅に二十九萬五千九百八十九担（此の代價六十七萬四千三百二十九圓餘）なりしが夫れさ
へ皆非常の損失をして漸くに片付けたるを得たる位なるに引換へ我邦より海外へ輸出せし
ものは卅一萬七千七百七十九担（此の代價七十六萬六千七百五十九圓餘に達せり云々
昨年中南京米輸入の傍に日本米の輸出もありたる事は事實に相違もあらず然れども此事
實は日本人が米作を廢して養蠶を爲さんとするの進路に何等の故障をも持來らざるものゝ
如し物價記者は日本米は他國に珍重せられ一年三千萬斤も輸出ある品物ゆえ日本に此米を
耕作するが得なりとの了見ならんかなれども我輩の考はこれに異なり何故日本米の輸出が
あるがといふに日本には米が餘りて直段甚だ安きがゆえなり何故米の澤山ある國に南京米
を輸入するぞといふに南京米は割合に直段安く日本米を食ふよりも得なればなり近來日本
には貧民甚だ多く殊に農民の如きは實際衣食に差支え中には餓死する者さへもあり一方に
は現在餓死する者あるに一方には米穀餘りありといふては前後不揃の言のやうなれども其
實は然らず日本の農民等は一方には利益甚だ少なき稻田を粒々辛苦して耕作し其収入する
所依然として野蠻未開の日に同じく一方には海陸軍備外國交際敎育法律衣食住居の事に至
るまで悉く皆文明開化人たるに不足なからんことを期して其費用實に貲られざるより數理
の自然に於て是非とも困窮せざるを得ず遂には一石僅かに五六圓の米さへも自から作て自
から食ふこと能はず去ればとて隣人もこれを食ふの力なく國民半は内に飢て其飯米たるべ
きものは纔かに其消費口を海外に求むることを得たるなり是れ或は日本國民が平生米を作
るの應報なりといふも可ならん我輩が常に早く米を廢して桑を植えよと云ふも决して其理
なきにあらざるなり然らば自今大に米の直段を引上げ大に海外に輸出して大に日本國民を
富ますの工風は如何といふに恐らくは物價記者にも此工風の持合せはあるまじ唯我輩は百
年千年待たりとて斯る空想の實際に行はるべき時節の到來することなしと斷言せんのみ米
は元と熱帯地方の産物にして近年追ひ追ひ世界の貿易の進歩するに從て歐米市塲にも漸く
その需要を增したりといへども誠に殘念なるは需要の增加に連れて米價の次第に下落する
の一事なり英國ロンドンの市塲にて今より廿五年前西暦千八百六十一年には米の平均相塲
百十二英斤に付英貨十二シルリング十ペンス（一石凡そ九圓五十錢）なりしが十二年前千
八百七十四年には同十シルリング三ペンス（一石凡そ七圓六十錢）に下落し本年千八百八
十六年の一月より四月まで四箇月間の平均相塲にては同七シルリング十一ペンス（一石凡
そ五圓九十錢）に下落したり是則ち世界の大勢なり文明開化の向ふ所天下に敵なし物價記
者が何程に力身たりとて米價復古の權略到底奏功の見込なきが如し斯る恐ろしき時勢に遭
遇しながらも尚ほ安閑として變則の稻田を耕さんと欲するが如きは實に氣の知れぬ限とい
ふべけれ
中外物價新報又曰く
若し夫れ時事新報記者の云ふが如く稻田麥畝を廢して桑圃に變化し生糸は需用廣きが故
に專ら桑樹の培養にのみ力を盡して米穀は悉く南亞細亞よりし麥類は之を北米合衆國に仰
ぐとせん歟其曉に至り若し天災事變の爲め全國の養蠶不出來にして伊、佛、支那等の養蠶
好况なるときは如何米麥を買ふの餘力あれば尚可なるが如きにもせよ盖し非常の難澁を一
般の頭上に及すことあるべし又唯だ米穀供給の塲所と賴める南亞細亞又は之を需用する清
國にして米作凶歉なる乎若くは小麥の供給地なる北亞米利加に飢饉の變あるときは如何我
が國民の食ふべき米麥は何れの所より仰ぐべきや是又殆んど言ふに忍びざるの困難を生ず
べし云々
是れ物價記者が稻田を變じて桑田と爲すを非難する最後の詰問にして此詰問には我輩も
少々返答に困ると申すは我輩とて元と記者と同じく凡夫の一人なれば我日本が彌々養蠶國
と爲りたる後天災事變の爲め全國の養蠶不出來の事果して有るべしとも亦果して無かるべ
しとも何れにも爰に前言することは出來ざるなり又安南、暹羅、緬甸、印度並に米國など
に大飢饉の變事ありて日本人が米麥の買出しに差支ゆるやうの塲合果して有るべきや無か
るべきや是亦豫め明言することは出來難し併しながら天災事變は養蠶のみに限らず米作牧
畜漁獵鑛山製造商業等一もこれを免かるゝこと能はず殊に米作の如き日本にては冷氣の爲
め印度地方にては旱魃の爲め全國を通して一年の収穫殆んど皆無となり非業に數多の人命
を奪ひし例甚だ多し然れども養蠶に限りて特に危險の大なる前例なく或は却て米作の方に
浮雲の性質多しとする以上は萬一の天災と慮りて米に固着し桑を擯斥するの理由毛頭なき
が如し又印度米國等が大飢饉にして日本に輸入すべき穀物が品切れとならば如何などいふ
が如きは聊か物價記者の過慮に屬するものにして寧ろノア時代の大洪水が明治年間に再来
することを心配して土藏を賣りて船を買入れ置かんとするの類に近からんか若し日本人に
してセッセと養蠶に勉強して金を溜め置かんには此文明開化の世の中に餓死の心配は甚だ
無用なり金さへあれば如何なる凶年饑歳たりとも山海萬里の珍味に飽いて悠々此年を永う
せんこと誠に自由自在なり然るに今我輩が此金を得るに數倍の便利あり養蠶を勸めて數倍
の不利ある米作を廢せよといふを見て中外物價新報記者が平生十呂盤上の事に頴敏なるに
も拘はらず大にこれに不同意を表するとは我輩一圓其意の在る所を知ること能はざるなり
マサカ米がなくなりては米商會所米屋町邊の衰微を來たそうらと申す譯にてはあるまじ
（畢）