「蠶糸相塲所の設立を望む」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「蠶糸相塲所の設立を望む」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

蠶糸相塲所の設立を望む

相塲會所あれば道の遠近に拘はらず時の現在未來に論なく物價の平均を得せしめて殖産世

界の見込を確にし製造家も商賣人も安心して業を營み以て不時の禍を免かれて恆の産を維

持するを得るとの次第は過日の時事新報に其意を述べたり左れば一國内に需要多くして賣

買の盛なる品に就ては一々其名を掲げて或る相塲會所の賣買に附するか又は其一品に限り

特別に會所を設けて取引の便に供するは人間自然の要用に出でしことにして歐米諸國皆然

らざるはなし我日本國に於ても其要用に促され株式取引所にては諸株式又公債證書等を賣

買し米商會所にては米を賣買して夫れ丈けは便利なる樣子なれども我輩の所見を以てすれ

ば日本國人の需要にして外國の貿易にも關係する穀物の相塲は必ずしも米のみに限る可き

にあらず大小麥なり大小豆なり又或は穀物の外に綿なり油なり鹽なり肥料なり賣買の廣く

して價額の大なるものは相塲所の品目に加へて至當なるのみか斯くなるときは其製産者も

商賣人も一入の便利を得ることならんと信ず就中我輩が爰に最も注目する所は蠶糸の一品

なり抑も我物産中その産出高の大なるは穀物を除くの外蠶糸の右に出るものなく又その高

の次第に増加し其製法の次第に改良して日進の觀を呈するものは蠶糸の外にあることなし

斯く迄に洪大なる物産にして其賣買の相塲は何に由て定るやと尋れば漠然横濱の相塲なり

と云ふが故に其横濱に行て探索すれば二三の賣込商人が二三の外國商人に賣渡したる昨日

の相塲が斯の如くなりし故に今日も大抵其邊なる可しと云ひ或は外國市塲の噂と風の便り

に聞くに佛蘭西は上景氣なりと云ふ者あれば否な風の便りにあらず今朝米國より電報を得

たるに同國の織塲にて糸の相塲は下向なりと明言する者あり何れが是にして何れが非なる

か之を判斷するに道なく唯當局の商人が其日取引の成行に任せて以て其日の相塲と爲すに

過ぎず國産の第一流たる蠶糸の相塲日に異なるのみならず取引商人の人々に異なるとは實

に驚入りたる次第にして之を酷言すれば日本の蠶糸に相塲なしと云ふも可ならん斯る乱暴

なる有樣にして其實際の影響如何と云ふに日本の商賣世界にて蠶糸商を危險の地位に陥れ

たるの一事なり其次第は今日に在て明日の相塲を知る可らず况んや來月の相塲をや尚ほ况

んや未來數月の景况に於てをや所謂寸前暗黒なるものにして唯萬一を僥倖するのみ初夏の

時節繭既に成る製糸家は現金を投じて繭を買入れ之を生糸に製して糸商人に賣渡すまでに

は凡ろ何箇月を費さゞるを得ずして此何箇月間に相塲の上下は製糸家の幸不幸に歸するの

外なし即ち純然たる投機の事と云はざるを得ず製糸は本來工の業にして唯かの有形の勞に

對するの報酬を目的となす可きものなるに此工をして實業と共に投機の危險を蹈ましむる

は何ぞや蠶糸に常の相塲なく定期を以て預め之を賣るの塲所を得ざるが爲なり製糸家は僥

倖にして其製糸の期中に相塲下落の禍を免かれ先づ安心して之を糸商人に渡したり即ち心

配を他人に嫁せしめたるの姿にして得意なれども是より糸商人の心中こそ不安なれ生糸を

買取りて之を在横濱の外國人に賣渡すか又は直輸出して其代金を請取るまでは破裂彈を懷

にして敵地に進むの状に異ならず首尾よく參れば獲物もあらんなれども其品物が未だ懷中

を去らざる其間に相塲下落の破裂に逢ふときは唯自殺の外ある可らざるなり危險も亦甚だ

しと云ふ可し

右は現在我國蠶糸の商况にして其製造賣買ともに未來に頼む可きものなきがために當局者

の不便のみならず正當の業を營みながら不運にしていふ可からざるの慘状に陥る者少なか

らず左れば今この不運慘状を救はんとするに如何す可きやと云ふに我輩の所見を以てすれ

ば便宜の地を撰で特に蠶糸の相塲所を設け直取引も定期の賣買も自由自在にして其賣買の

區域を廣くし商賣世界の資本を招て其塲所に來集せしむるの工風專一なる可しと信ず即ち

蠶糸相塲の本陣を搆へたる姿にして毎日毎時の價格を一定するのみならず幾月後の相塲も

今日に現はれ遠方にある實物の影を實にして賣買に附すること自由なれば彼の製糸家又は

糸商人の如きも運を天に任するの危險を免かれて成敗を自力に制するの地に安んじ蠶糸の

賣買始めて確實なるを得べし人或は謂らく蠶糸を相塲所に賣買すればとて其價の變動を止

む可きにあらざれば其一高一低の際に商人の損益は塲所なきの時に異なることなかるべし

との説もあれども我輩の所見は即ち然らず從來我國の糸價に高低の變動甚だしきは米に伴

ふの資本少なきがためなり資本少なければ利益を長き日月に期するを得ず例へば年の七八

月に品物を買入れ其年末には必ず價の騰貴することあるべしと見込は甚だ妙なれども金力

あらざれば不利と知りながらも今日の即金に之を賣らざるを得ず之がために其日の相塲俄

に下落して忽ち買方の心を動かすときは翌日又大に騰貴を催ふすと雖ども此買方も亦資本

の豊なる者にあらざれば持重に堪ゆ可らず即ち一高一低常なき由縁なれども今若し相塲所

を開いて其賣買を大にし大に資本の運動することあれば長日月の利益を期して一時の高低

に驚かざるのみか或は三箇月を待ち或は半年を見込み尚一箇年の耐忍も難きにあらざる可

し盖し富商大賈は其利益を數年に平均して成敗を〓(竹冠に弄・さん)するを常とす蠶糸

の相塲所は富商大賈を誘ふて其賣買に赴かしむるの媒介なり穀物に亞で大切なる此國産物

の賣買を擧げて一日の金融に〓(戚に心・せき)々たる小商人の手に附すると數年の平均

利益を〓(竹冠に弄・さん)する富商の進退に任ずると其利害は特に喋々の辨を待たずし

て明かなる可し