「演劇改良(昨日の續)」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「演劇改良(昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

演劇改良(昨日の續)

我國の俳優は社會に對して其位地甚だ卑く位地卑きが故に身の責任甚だ輕く甘んじて名教外の輩たるが如くなれども文明社會にては演劇を以て文治教育の一端とするの趣あれば俳優も亦自重せざる可らずとは我輩の嘗て助言せし所なるが俳優なるものは其行状を慎しむの外に文明の學識を具へざる可らず西洋の演劇などは或る人が講談師の掛合の如しと評したるに違はず言語應對十の八九を占め然かも其言語は極めて優美嫺雅なるものを用ひ俳優の言葉は談話の模範とも為る程なれば苟にも規則外れの語法を許さず倫敦の或る劇塲にて有名なる俳優がシエーキスピヤのハムレツトを演するに當り其俳優の見識を以てAkinと云ふ字をSkinと讀みしに忽ち學者間の疑問と為り賛成駁論一ならず果ては有名なる新聞紙の論説に上りたることあり俳優言辞の容易ならざる想ひ見るべし左れば西洋の俳優は多くは高等の教育を受けたるものなり當時英國第一流の俳優アーウヰン氏の如きは頗ぶる哲理に通ずるやの評判あり斯くて好俳優は夫れ夫れの見識あるがゆえに好脚本を得て之を舞臺に演するに當りて扮装態度の優美を示すは勿論、觀客の感情を察して或は之を刺衝することの餘りに激切ならんとの恐もあらば体裁よく脚本中の一部分を隱蔽し去ることあり例へばシエーキスピヤの脚本中に或る男が嫉妬の為めに其妻を寝床上に縊殺するの塲あれども有名なる俳優某が之を演するに當りては其縊殺の處を蔽ふて之を人に示さゞりしと云ふ又俳優の不注意にて其擧動の觀客を激すること抔あれば忽ち不評判を來すを免れず倫敦の或る劇塲にて家僕が其部屋に歸り來り汚れヅボンを振ふ處を演したるに觀客は大に其不敬を怒りて忽ち此演劇の聲價を墜したることあり文明社會禮儀のやかましき世の中にては俳優技藝上の注意も亦容易ならずと知る可し

篇首より陳述し來りたる如く劇塲を新築して其道具立を改良し脚本著作を學術文章の士に任じて之を演ずる俳優の注意を要し日本國の演劇として之を外國人に示して毫も愧づる所なきものを出來したる處にて扨て其演劇が果して日本人全体の好尚に適して興行毎に大喝采を博す可きや如何我輩の豫知する能はざる所なれども我輩が爰に演劇改良と云ふは一時に全國無數の演劇を改良せんとする譯柄に非ず世態人情の進化するに連れて都人士の好尚自から變化し舊來の野蠻演劇を以て其情を慰むるに足らず特に外交も頻繁にして外國人の來遊も多きことなれば此等の人々の為に差當り首府に新劇塲を設けて文明流の演劇を開かんことを希望するに過ぎず且つ其改良演劇とても敢て六ケ敷き言詞脚色を用ひて通俗の旨に負かんとするに非ず又其脚色より男女の情交を除き去りて興味索然禪宗坊主の相談會の如くならしめんとするにも非ず唯從來の演劇より文明人の眼に忌はしき部分を除き去り優美高尚の旨を存するに至れば夫れにて滿足する者なり即ち今の中以上の人情に適せんとする者にして心ある人々は必ず之を見ることを樂しむことならん若し夫れ下等人民か或は田舎漢に至りては思想簡單にして其感覺遅鈍なるが故に今の東京新富座の演劇にても尚或は其無味高尚なるを感じ之を見て欠伸を催うする者もあらん試に田舎芝居を見るに岩永左衛門は赤鬼の如き面にして甚だ惡態、重忠は色白く眼涼しくして善人の如く「同じやうに座にならんで殿樣顔してござれどもいきかたは雪と墨」なる趣は阿古屋を俟て知らざるなり思想簡單なる田舎人は斯かる演劇を賞翫するならんと雖ども優美なる都人士は之を見て其情を慰むること能はざる可し即ち人の文野に由りて其好尚を異にする所以なり故に全國無數の劇塲をして悉く文明高尚ならしむるは固より望む可らずと雖どもせめて東京の府中には一の文明劇塲なかる可らず然るに今東京に於て優美なる紳士貴女の眼に適する演劇なしとすれば此等の士女の來觀を目的として改良劇塲を開くこと甚だ大切の事なる可し演劇改良家は今の人心の勢に乗じて速に其功を成すの覺悟ある可きものなり (完)