「改良を要するものは演劇のみならず」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「改良を要するものは演劇のみならず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

改良を要するものは演劇のみならず

近日東京にては演劇改良の談を開き既に其發起者ありて賛成人も少なからず我輩に於ても固より此擧に同意を表するのみならず改良の要用は夙に時事新報にも發言したる程の事なりき盖し今世の士君子が改良論に熱心する其理由は種々樣々なれども歸する所を概すれば今の日本の演劇は時勢に後れたるものなるが故に之を改良して進歩を謀ること要用なりと云ふに過ぎず而して其時勢とは西洋文明の時勢にして今の世界は唯西洋文明の一主義に由て支配せらるゝ其時勢の中に居ながら此主義に外れて演劇を維持せんとするは迚も叶ふ可らず今に當て早く其謀を爲す可しとの注意は如何にも尤も至極にして問然する所なしと雖ども我輩は常に社會全般の進歩を忘るゝこと能はざる者にして今日我日本國の演劇が文明の時勢に後れたりと云へば同時に眼を轉じて社會の他の人事にも改良を要するものはなきや人事の活劇揚々として自得する者が何ぞ料らん既に巳に時勢に後れながら尚舊套に戀々依々して曾て改良に心付かざるが如き塲合はなきやと更に新に問題を起すも亦是れ思想の聯合にして自から禁ずること能はざる所のものなり今日仔細に社會の樣を視れば演劇の趣向時勢に後れて文明の進歩に伴ふこと能はずとの宣告に對しては辨護の法なしと雖ども社會活劇の大趣向たる教育なり殖産商賣なり果して能く文明の時勢に後れずして其進む所に進みたるやと尋るに我輩は然りと答るを得ず我教育は四五年前より其針路を古學流に取りて朝野共に之に熱心し西洋學は危険なり西洋學者は輕躁なりなどゝ擯斥して支那の古書を讀み日本の古典を講じ老〓碩學俄に再來したるのみならず昨日までは文明の主義に誇りたる諸先生も頓に思案を運らして古學亦妙趣あり棄つ可らずと稱して時の風潮を助成し兼て又自身の地位を助成したる其趣は新狂言を俗なりとして前々太平記の舊套を演したるに異ならず時勢に後るゝも亦甚だしきものなり幸にして近來は其風潮の方向も正當の新趣向に變じたるが如くなれども四五年間退潮の影響は随分著しきものにして今日となりて古學流の故老を不用なりとて無下に擯斥す可きにもあらず是れにさへ當惑する處へ曩に一時に奨勵したる古學の學坐は約束の如く成學して尚當惑する等の奇談なきにあらず今の教育を時勢に伴はしめんとするは易からざる事業なりと知る可し又殖産商賣の事は如何と尋るに是れ亦文明の時勢に後れざるもの甚だ少なしと答へざるを得ず我王政維新は字義の如く眞に政事の維新にして政府に直接關係する兵事法律等は見事に面目を改めたれども殖産商賣は然るを得ず古來士を貴んで商を賤しむの國風にして士族は知徳の叢淵と稱せられ又随て社會の榮譽をも専にする其士族が政權を得たることなれば政事はいよいよ貴きものとなりて名利共に政治社會に歸し其社會に人物も多しと雖ども商賣の事は擧げて之を古風の商人共に任じ商人は依然たる素町人にして知識なく氣力なく就中自から身を重んずるの大義を知らざる者共なれば其身の輕きと共に其商賣も亦世に賤業視せられ上流の士君子にして顧る者なし之を要するに今の商人社會を平均して政治社會に對すれば遙に其下流に居て奴隷に等しき者と云はざるを得ず奴隷社會なるが故に君子は之に入らず、仲間に君子を得ざるが故に奴隷はますます奴隷ならざるを得ず然り而して文明の國を立るや専ら殖産商賣の事業に依頼するとの一義は普く人の許す所にして事實に於て然るも亦人の目撃する所なるに我日本に於ては此大切なる事業を所謂素町人に委托して平氣なるが如し語を酷にすれば立國の大木を奴隷の手に任ずると云も甚だしき過言にはあらざる可し既に奴隷の殖産商賣たり何を以て内に事業を起して外に文明國人と商鋒を爭ふを得んや故に今日本國中何事か最も文明の時勢に後れたるものぞと尋る者あらば我輩は之に答へて殖産商賣是なりと言ふの外なし今の商人を奴隷視し其事業を賤業視しながら此輩をして外國人と商賣取引の交際を爲さしむる其陋醜は天保時代の脚本を演劇して文明人の觀に供するよりも尚見苦しき活劇ならん畢竟數百年來封建の制度に馴致せられたる我國の士民が今尚封建の殘夢中に迷ひ士尊民卑は天然の分の如くに思ふて文明立國の大本を忘れ之を卑しむ者も平氣なれば卑しまるゝ者も耻辱を知らず以て今日の衰勢に陥りたるものなり我輩は唯失望の外あらざるなり

右は社會活劇の一二を擧げたるものなれども尚この外にも文明の時勢に對して進歩の疑はしきものを計へたらば枚擧に遑なきことならん西洋の文明を標準にして我男子の品行は能く文明の時勢に伴ふもの歟、男女の交際は果して時勢に後れざるもの歟、衣食は如何、住居は如何、人々の勞働は如何、家々の資産は如何、又私を去りて公に入り官途に先進後進の人物その權力の割合果して相當して時勢に後るゝことなきや維新以來二十年明治元年は今より一昔なり一時代なり人物新陳交代の活劇はよく舊扮装を改めて文明の新装を着けたるや否やなどと筆に任せて記せば際限ある可らず其時勢に後るゝと後れざるとの論は他日に譲り先般以來我輩が頻りに演劇改良の論を喋々したる末に様々の事を思起し演劇の改良固より同意なれども改良は特に演劇のみに限らず外にも之を要するものある可しと其大意を記して序ながら讀者の注意を引くのみ