「政策二つ進むと退くとのみ」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「政策二つ進むと退くとのみ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

政策二つ進むと退くとのみ

一家を保つは人生の大事なり一國維持するは一家を

保つよりも更らに一層の大事なり一家の事を處するに

當り偶ま其撰ぶ所を誤まることあれば其影響の及ぶ所

一家一時の福利を減ずるのみならず或は遂に家の滅亡

を招くが如きことなきにあらず家事を處するは實に困

難なるものといふべきなり併しながら家事大なりとい

ふといへどもこれを國事の重きに比すれば尚ほ甚だ小

なるを免かれず小事の過誤は其禍を防ぐの工風容易な

りといへども大事は然らず今日一歩の誤まる所遂に永

世の禍を遺して人力の以てこれを如何ともすること能

はざるに終ること多し家は小舟の如く國は大汽船の如

し人あり小舟に棹して河流を遡らんとするに偶ま其棹

の操つり巧みならずして或は沙角に突掛り或は橋杭に

衝突するやうの事あるとも其結果必ずしも大ならず唯

更らに一棹して沙角を退き廻りて橋杭を避くるの勞を

徒費する位のものに過ざるべし然れども大汽船の海峽

を航通するものは然らず船長の不熟練なる行くべから

ざるの路に船を行り忽然數歩の前に岩礁の横はるを見

て扨ては航路を誤まりたり退行すべしとて即時に船体

の進行を止めんとするも惜いかな非を悟ること既に後

れたり汽船は中々船長の心の儘に命令を奉ずるものに

あらず船長が今正に號呼叫喚する其際に悠然前に進ん

で岩角に一觸し湖水滿船數分時間の後には船長以下數

百の人員を載せたるまゝに數十百仞の海底に沈沒して

再び人間世界に其消息を通ぜざるべし若し國事を管す

る者にして家事を管する者の所爲を學び國の大なるを

忘れて我力の小なるを思はず臨機應變浮沈進退其の日

其の日の空合を窺ふて都合次第に當面の國事を處置し姑

息以て此繁劇多難の世を渡らんとすることもあらば遂

は早晩必ず前の船長と其運命を同じうするの日あらん

こと我輩の信じて疑はざる所なり

國の外交上に豫め政策の一定を要するは我輩の多辨を

嫌ひ今我日本國が外交の關係を有する國々は歐洲の

諸大國北米合衆國及び西隣の支那朝鮮等を以て最も重

要なるものとす而して此等の諸國に對し其國柄に應じ

て夫々豫め我外交上の政策を一定するの大切なるは何

れも同一權にして彼此輕重の差あるべからずといへど

も然れども近來東洋の東陸風雲殊に尋常ならず時に雷

鳴電光を耳目する折柄支那朝鮮に對する我政策を豫定

するの一事は目下緊要中の最も緊要なるものといふも

敢て不可なかるべし今此の二國に對するの政策を定むる

に當り其撰ぶ所左の二策に出でず即ち一は退讓策にし

て一は進取策是れなり退讓策を主張する者の説ふ曰く

西洋人が電氣蒸氣を利用するの甚だしき海陸道路の遠

きを見ず遂に東洋を以て平時互ひに其國力の優劣を試

驗するの競爭場と爲すに至れり東洋諸國の國力の乏し

き西洋諸大國が交はる交はる來て其威權を弄するに任せ

てこれを如何ともすること能はず此際若し東洋諸國が一

致親和して飽くまで内を守るに力を盡すこともあらば

或は尚を國命の幾年を長うするを期し得べしといへど

も若し否らずして互ひに自から反目疾視するが如きこ

ともあらんには所謂鷸蛙の爭ひ故らに漁夫の利を作る

ものにして東洋の全土は明日を待たずして東洋人の有

にあらざるべし今日本が支那朝鮮に對するの政策にも

唯須らく此意を體し二國人の不知不明なる時に恕すべ

からざるの擧動を爲して我れに對することありとも是

れ唯其不明不知の致す所なりとして我氣を押へ其恕す

べからざるを恕して一日も長く三國の和親を維持せん

こと自他均霑東洋全体の幸福たるべしとこれに反して

進取策を主張する者は曰く東洋三國の平和親睦は東洋

三國の爲めに甚だ希望すべき所なりといへども此平和

親睦の甚だ希望すべき道理を合點してこれを希望する

者は目下唯日本人一人のみにして他の支那朝鮮二國の

人に決して斯る道理を合點すること能はず偶ま日本人

が親愛の言語擧動を爲すを見ればこれを以て東洋全体

の平均を維持し三國の國運を長うせんとするの良心よ

り出でたるものとは思はずして却て之を執て卑しむべ

き臆病心より出でたるものと爲し日本輿みし易きのみ

日本恐るゝに足らざるなりとて早くも彼我の間に存在

する大切の約束を破り再び之を誓ふて再び又これを

破るなど其擧動の亂暴狼藉なる如何は理に明かに堪忍

に強き日本人にても到底堪忍し得ざるの場合に臨むこ

とあり必竟彼れの不知不明に因るといへども長く此不

知不明のまゝに放棄し置く時は獨り日本の爲めに不利

なるのみならず實に東洋三國の爲めに救ふべからざる

の禍害を來たすべし然るに退譲の策は到底以て此不知

不明を回へして知且明ならしむること能はざるものと

すれば更らに其方向を轉じて進取の策を採り毅然とし

て動せず活溌にして倦まず約束は必行し無禮は必罰し

彼れをして大に敬畏の心を喚起さしむるに至て始めて

以て其不知不明を回へさしむるの機會を得べきなり果

して然らば東洋三國は唯日本が退譲進取孰れの政策

を採用するかの一事に由て其運命の長短を決するもの

なりと以上兩論の中に就き我輩は固より進取策の輪に

同意するものにして兼ねて又全國人の我輩に左袒する

ことを希望するものなり