「北海道の出稼ぎは果して最上の利益なるか」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「北海道の出稼ぎは果して最上の利益なるか」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

北海道の出稼ぎは果して最上の利益なるか

都會と田舍と比較すれば田舍の方、諸色下直にして活

計容易なる可き筈なるに人民の屈強なる者は兔角田舍

に安んぜずして都會に集るは何ぞや田舍に土地廣くし

て野にも山にも稼ぎの場所はあれども其稼に由て生じ

たる物を賣るに苦しみ無理に之を賣らんとすれば其價

非常に下直にして骨折に報るに足らず何ほど稼ぎても

粗衣粗食の外あらざれば遂に舊發して出稼ぎを企るこ

となり扨都會に出れば衣食住の物都て高直にして田舍

に較れば幾倍の價なれども買ふ物が高直なれば賣る物

も亦高直なるが故に等しく貧乏ながらも其日の暮し向

は田舍よりも幾分か上等にして田舍の麥飯に易るに米

の飯を以てし濁酒の代りに清酒を呑むが如きは都會の

功徳と云はざるを得ず又田舍の貧乏人が田舍に居て身

代を作り出すこと甚だ難く都會に出でたる者とても生涯

貧乏なる者は多しと雖ども無一錢の身分より出世して

遂に富豪の家を起したるの例は都鄙何れ多きやと尋

れば固より機会多しと答へざるを得ず今その然る所

以の理由を吟味すれば都會の地には物を消費する者多

きが故なり、消費者多きがために物を作りて之を賣る

に良く又隨て其値段も高きが故なり、之を要するに都

會は都て富豪の人の住居する所にして全体の空氣豊な

れば貧乏人も自然に其空氣に温められて活計にも易く

身代を作るにも手掛り多きが故ならん

是れと同じ道理にて新に製造所を設けて物を製するに

も又は土地を開墾し又は漁勞の業を起すにも其製造し

又収穫したる品物を賣捌く可き地方の遠近、運輸の便

不便、又その地方の人の貧富即ち購買力の如何を豫算す

ること最も切要なりとし物産のために市を測量するとは

此事なり例へば仙臺の海洋には春期鯛の漁獲甚だ盛な

れ共其魚を仙臺の市中に給して餘るが故に値、土の如

くにして漁夫の勞力を償ふに足らざること多しと云ふ又

或る地方の農學者が西洋流に倣ふて葡萄を栽培し大に

秋實を得たれども田舍の市にて買ふ者甚だ少なくして

遂に之を腐敗せしめたることあり又去年或る縣廳の下

にて例の節倹勉強の旨に從ひ貧民に説諭して頻りに草

鞋を作らしめけるに律義なる小前の者共は御説諭の通

りに毎日その製作品を持込み忽ち何十萬足の山を爲し

て賣捌の道なきのみか草鞋貯藏のため特別な納屋を建

築するの要用に迫らるゝなど説諭者も始めて大に當惑

したることありと云ふ畢竟この種の不都合は何れより

生ずるやと尋れば物産に市を得ざる缺典に由りて然

るものなりと答へざるを得ず

以上陳る所の理由果して是にして之を事實に徴しても

相違なきに於ては我輩は爰に日本國中有爲の壯年輩の

ために謀りて其考案に供す可き利害得失の輪あり即ち

北海道出稼ぎの事にして其事果して最上の利益にして

疑なきものか少しく思慮せざる可らず該道は千里無人

の沃野にして開墾に利益ある可きは勿論四面の海濱に

漁獵の盛なるは天下無比と稱す内地にて人口稠密群集

の中に苦しまんよりも身輕に北海道に出掛けて渡世の

道を求む可しとは我輩の宿論にして今日にても此論旨

を變ずるに非ず北地の出稼ぎは内地の坐困に優ること萬

々なりと雖ども近時世界中に交通の便利を増したるは

文明の劇變とも云ふ可き勢にして外國に往來するも内

地を旅行するも難易の別なきのみか汽船に乘て太平海

を渡るは帆前船にて瀬戸内を上下するよりも易きなど

の次第なるが故に此點より視れば北海道の出稼ぎも其

利益或は亞米利加地方の出稼ぎに劣ることはなきやと

疑を生ぜざるを得ず北米カリフォルニア州を始として

英領コロンビヤ及びカナダの諸方には近年ますます新

地を開發して農業の盛大を致し地面廣くして人口少な

く隨て努力の價甚だ廉ならず苟も是等の地方に行く者

は資本あれば土地を買ひ無錢なれば勞役に服し三五年

の辛抱にて富を致すこと甚だ易しと云ふ蓋し地質の豊

饒にして地價の廉なるは我北海道も亞米利加も同樣な

る可しと雖ども亞米利加に限りて特に利益の厚きは第

一彼の國商法の組織整頓して其農産物の賣捌に苦しむ

ことなきが故ならん第二彼の國の社會は都て殷富にし

て購買力の力逞しく何はとの品物を供給するも其需要に

餘ることなきが故あらん之に反して北海道の農漁の事情

を察するに兩樣共に收穫は甚だ多きよしなれとも我國

商法の不整頓なる假令へ収穫の實物あるも或は商人に

資本乏しきがために其物を運轉するに苦しみ或は無理

に運轉せんとして却て實力ある外國人のために永く利

益を占めらるゝ等の憂なきにあらず又或は利益の薄き

にも拘はらず唯ますます農漁を勸めて産物を増殖せん

か忽ち荷支なるものに逢ふて販賣の道閉塞することあ

る可し該道の或る農業社にて小豆を作り七百石を収穫

したり陸路馬背にて海岸まで出し船に積んで之を大坂

の市上に送付けたるに品物の性質最上なるを以て容易

に買捌たれども此七百石を増して七千石又七萬石にも

ならば大坂市上小豆の相場は忽ち大に下落して農業社

は時に或は小豆を抱く當惑するの難澁ある可しといふ

小豆にして斯の如し麥も又然らん芋も亦然らん又海産

物の鮭鯡の如きも内地人民の購買力に乏しきが爲に今

日にても時としては荷支を生じて價の下落することあ

り迚も之を増して十倍と爲し二十倍と爲すの見込は立

つべからざることならん即ち我北海道の産物は日本の商

法の尚未だ整頓せざるがため又日本國人の尚未だ殷富

ならざるがために今日尚未だ適當の市を得ざるものな

り産物市を得ざれば收穫の實物は多きも其利益は則

ち少なし生活を求る者の身に取りては篤と勘辨す可き

場合なり左れば我輩は敢て北海道の出稼移住を止る者

に非ず人々樣々の事情もあることなれば或は大に保護

などを受けて特に北門に熱心するが如きも知者の一説

なれども心身屈強にして差向き錢を得るの多からんこ

とを欲し又永久立身の謀を爲す者は北海道を斷念して

文明殷富の國土に出稼ぎを企てんこと敢て我輩の勸告

する所なり誠に布哇島の移住人を見よ該島は本來殷富

の國とも名け難き孤島なれども文明富人の支配する所

と爲りて商工上の萬事整頓するが故に移住の日本人も

唯勞役して怠らざれば快く衣食したる其上に多少の貯

金をも爲したるに非ずや北米其他の地方には幾多の布

哇島ありて啻に農業のみならず鐵道敷設の工事も忙は

しく諸製造所の手業も多し此邊に住て立身の謀を爲す

は内地にて田舍者が都會に出でて仕事を求るよりも易し

何となれば其周圍の殷富は我都會の比に非ずして貧

塞出身の者が其殷富の温を引くこと速なる可ければな

り或は貧塞にあらずして多少の資本ある者は之を携へ

て行て土地を買ふも可ならん又は商店を張て日本品を

賣り又は日本移住人の周旋する等何れも隨分利益ある

ことならん日本にて有志有爲と稱せらるゝ商人等が近來

我經濟の紊亂不景氣のために窘められ一年五分内外の

利益を目的として公債證書諸株券等を買ひ以て坐食の

謀を爲すが如きは我輩の取らざる所なれば序ながら此

流の人に向ても外國行を勸告するものなり