「舊藩主華族の東京住居を禁ずべし」
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時事新報に掲載された「舊藩主華族の東京住居を禁ずべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
舊藩主華族の東京住居を禁ずべし
我輩は數月以前に舊藩主華族が各其舊藩地に住居する
事の甚だ利益ある所以を再三陳述したり其理由とする
所を概言すれば第一明治の初年藩を廢して縣を置き舊
藩主をして皆其家族を率ひて東京に來住せしめ藩地に
留まることを禁じたるの趣意は人心の固陋たる急に三
百年來封建の遺習を脱却すること能はず一旦廢藩置縣
の擧を以て政治の組織を改新したりといへども舊藩主
にして依然舊藩地に住居し舊主舊臣常に相見て常に舊
時を談ずるの際には人情の自然として兔角に舊來の習
慣を維持せんことを勉め或は大に新政に不利なる事を企
つるの場合なきを必すべからずとの掛念より外ならざ
りしならん當時に於ては尤もなる掛念なれども十五六
年後最早斯る掛念の用なきのみか却て今は舊藩主を舊
藩地に住居せしむるの必要を感ずるの事情ある事第二
近年日本の不景氣は其主因幣政の宜しきを得ざりしに
在ること勿論なりといへども尚ほ此外にも種々の小原
因なきにあらず即ち全國の財を東京に集合して地方に
有力なる財産家の欠乏したるが如きも亦其原因ならん
今の舊藩主悉く財産に富むにあらず中には資産と負債
と差引して負債の方に餘剩を見る者さへある次第なれ
ども概して云へば祖先の餘澤尚ほ甚だ濃くして家に上
等の財産を積む者甚だ多く其上に上なるものに至ては
一家一年の生計に十萬圓以上を費す者も決して少なし
と爲さず今此等の人々にして銘々其舊藩地に到り年々
家計の費用を其地に散するの外に尚ほ餘力ある者は其
地方有益の事業に資金を下し自他共に大に利するの計
を爲さんには全國一般の幸福たるべき事第三舊藩主一
身の私の為めに謀りても東京の生活は我身分に屬する
虚飾費澤用の費甚だ多くこれを省かんとすれば我体面
を傷けて人に齒せられずこれを省かざれば家計の出入
相償はずして往く往く倒産の憂あり然るに舊藩地の住
居はこれに反して虚飾の費用甚だ少なくして人の敬愛
を受くるは尋常に倍し出入常に餘りありて家計年を遂
うて豊かなるべく實に家の至計たるべき事其他舊藩主
其人等が人の侮を懲いて力の及ぶ限り國に對するの義
務を盡さんとするにも家内の幼子女を教育するに當り
て其身心の未だ健強ならざる間は都會の惡風俗を見聞
せしめざらんとするにも彼れにも此れにも舊藩地住居
の便利勝がて云ふべからざるなり是れ即ち近來世論の
漸く舊藩主をして舊藩地に住居せしむるの利便を唱ふ
る所以なるべし
然るに此利ありて害なき國家公私の一要事を實地に施
行せんとするに當りて爰に其途に横はるの一故障あり
と云ふは當局の華族其人にして東京住居を棄てゝ地方
住居を取ることを好まざるの一事なり蓋し徳川政府の
時代諸藩主皆其邸宅を江戸に構へ幕府の人質として
一切の家族をこれに住居せしめたるのみならず藩主身
自からも多くは江戸の藩邸に在て國に就くは稀れなり
し然るに幕府瓦解の時還に際し藩主皆其家族を率ひ
て江戸を去り各其藩地に移住し住み馴れし都會を棄て
ゝ馴れぬ田舍の住居を本意ならずと思ふ折柄又々廢藩
置縣の爲めに東京生活を命ぜられ時世に古昔の欺なき
にあらずと雖も人情田舍を棄てゝ花の故郷の東京に歸
住するは其喜び譬へんものなく爾來十餘年自由の生活
に都の月雪花を眺(機種依存 日+永)め都の歌舞音樂を耳目し口に都の珍
味を食ひ身に都の時樣を飾り其歡樂尋常ならざる折柄
偶ま今自今舊藩地住居勝手たるべしと申す位の沙汰を
聞きたりとて三百の舊藩主中自から好んで東京を去ら
んとする者は恐らくは僅かに指を屈するに過ぎざるな
らん蓋し深く利の在る所を究はめずして目前の小快樂
に安んずるは人情の自然に於て甚だ免れ難き所なれ
ばなり主人既に東京を去ることを好まずこれに隨從す
る執事侍女輩固より田舍に行くことを好まず上下心を
一にして東京住居を望むとすれば假令世論が何程深切
に舊藩地住居を勸告するとも恐らくはこれを採納する
者少なかるべし斯くては國の公益の爲めのみならず華
族一家の私益の爲めにも甚だ不利なる事と申すべきな
り故に此目的を達せんとするには我政府は唯從來華族
が舊藩地に住居するの禁を解くのみに止まらず恰かも
前年の命令を平翻し更めて自今華族は皆其舊藩地に住
居すべし止むを得ざる事情ありて特に政府の許可を得
たる者の外は東京に住居するを許さずと命令すること
必要なるべし若し此位の嚴命なくして銘々の勝手に田
舍住居苦しからずといふやうの沙汰に止まらんには到
底今の華族をして舊藩地に住居せしめ得べき工風なき
ものと信ずるなり