「露國の攻略」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「露國の攻略」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

露國の攻略

去年の四月英露兩國阿富汗に事あるに當り英國は朝鮮

の巨文島を占領せしが之れと同時に露國の軍艦往々濟州島

邊に出沒せしかば世人は露國が巨文島に對して濟州島

を占領するならんと噂せしに其の後鷲旗の濟州島

に翻へるを見ず露國の擧動近頃までも其爪牙を東洋に

露はすことなかりしが近頃に至り露國は朝鮮に向て永興

港即ちラザレフ港を割讓せんことを申出したり、露國艦

隊は威鋭道の海岸を巡航したり、朝鮮駐箚の露國公使

は朝鮮政府へ貨港の事を談じたり抔云へる風説あり此

風説は獨り東洋人の臆病心に向て吹くのみならず近來

歐洲の諸新聞紙上にても亦此風説の響を聞くを以て察

すれば天下衆目の視る所頃日日露が朝鮮に對するの擧

動に疑惑あるものゝ如し我輩も兼て露國が冬時不凍の

良港を東洋に得るの慾望ありと聞くものから聊か掛念

の條なきに非ざれとも頃日歐亞の事情に通じたる或る

人が一説として論ずる所を聞けば露國は今日左る訝か

しき擧動を爲すものに非ず抑も露國の君臣は前代ピー

トル大帝の遺訓を奉じ先づ土耳古邊を蠶食して歐洲の

形成を制するの地を爲し迫て東南亞細亞にも侵入する

の所存なるべく是より先き屡々土耳古邊の事に手出し

たることもありしが近年國内不平の徒あり虚無黨と稱し

て毎度犯上抗官の擧動を爲し剩さへ先帝アレキサンド

ル第二世陛下を逆拭したりしかば今上即位の初より專

ぱら意を内治に傾け特に露西亞の國と爲り土地の廣大

なるに比して風化未だ治ねからず民間殷富の實なきが

爲め鐵道を敷設し殖産を奬勵する等國用自から多端に

して頻年財政に餘裕を見ざれば事端を外國に開くは蓋

し其好まざる所なる可しその證據には近年歐亞諸國に事

あるに當り露國は手を其間に出さず一昨年佛清の戰爭

に英獨二國が無言なりしは其無言なりしが爲め自から

其報酬あることなれば決して偶然に非ざれとも露國の如

きは事情もなく默然たりしものにして其實に外國交渉

に意なきを見るに足れり又英國が巨文島を取るに當り

露國若濟州島を取らんとすれば現在英國の手本もある

となれば天下故らに酷に露國を評するの患もなく唯一

國に占領することを得べかりしに敢て手を下さゞりしは

是れ亦當分境土蠶食に意なきを見る可し左れば露國が

朝鮮を保護國にせんとすと云ひ或は其永興港を占領す

るならん抔云ふ風説は露國の嚴格に奧深く一癖ありげ

に控へ居るを望見して徒に其疑心に書きたる暗鬼なる

可し、勿論何れの政府にても其一部分には種々の考案

あるものにして露國海軍の部分抔には事功に勇む軍人

の習として或は朝鮮を如何せんと云へる種々の議論も

ありしことならんと雖ども其は單に議論にして露國政府

が之を事實に行ふの場合までには餘程の隔りあることな

らん將た又露國が永興港を取ることあるも此邊一帶の地

と露國の都府セント ピ-トルスボルク及びモスコー

等との間は荒野無人の境を隔て一旦戰爭の事あるも露

都より軍器一切の物を陸送するの便を得ざれば冬時不

凍の良港も實地に臨んで其利用甚だ少なからざるを得ず

要するに露國の擧動に就き彼れ是れと説を爲し又膽を

冷す者あるは所謂風説鶴唳の類ならん云々此説一應尤

もなるが如くなれども漫に安心す可らず凡そ政治家の

政客は彼の藪睨みの眼の如し傍より觀て彼方を睨み居

るかと思へば案外にも此方を見詰め居るが如きことあり

外交政略上人をして其着眼の所在に迷はしむるは政治

家の得意手段なり現に露國の執政家中にはギール氏の

如き人傑あり且つ其政治は獨裁にして果斷速決の一段

に至ては立憲政治國にて事々國會議院の相談を要する

者の比に非ざるがゆえに其朝鮮に對し將た東洋全体に

對する政略上に如何なる豹變を見る可きや我輩豫め之

を端倪す可らず今暫く世間の説を擧げて識者の判斷を

請はんと欲するなり