「愈よ市區改正の必要なるを知る」
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時事新報に掲載された「愈よ市區改正の必要なるを知る」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
愈よ市區改正の必要なるを知る
本年東京府下のコレラ病は其勢頗る〓〓を極め一時流行の盛んなりし頃には一日の新患者郡區合して殆んど四百名、日本橋區の一區にても百名の數に至らんとせし程の次第にて下町邊繁華の區域は勿論、山の手より各郡部地方に掛け何れもその流行を免るゝこと能わず流行の始め即ち五月の初旬より昨今に至るまでの患者の總計は一萬千八百餘名の多きに至れりその惨毒の状は今更申す迄もなき事ながら東京府民が之が爲め直接〓〓に蒙りたる損害は實に〓しく警視〓及び東京府にて豫防の爲に費したる金額は三十萬圓内外にて爲めに府下本年度の戸數割並に區費は殆んど例年の二倍に及び納税者の苦情一方ならずというされどもこの三十萬内外の金額は全く地方税の支出に係る部分のみにして府下一般の商賣營業の上に蒙りたる損失と其外國庫の臨時補助金有志者の義〓金を合算するときはその高〓に非常のものにして盖し東京府民が本年コレラ病の爲め直接間接に消費したる金額は數百萬圓に上ることならんという
昔年の事は暫く措き維新以後コレラ病の我國に流行したるは明治十年を始めとし其後年々多少の患者あらざるはなし尤も東京府下に侵入したるは明治十二年十五年及び本年にして是迄の經〓に依れば府下にては凡ら〓五年の間に一回ずつ流行の割合なればその病根の根滅せざる限りは今後と雖も時々流行を免れざるものと覺悟して以て其豫防法を研究せざるべからず盖しコレラ病毒の本体如何に係りては學者中未だ一定の説なきが如しと雖ども兎に角に傳播流行の性質を有するものたることは學理上又實〓上分明なるが爲めに豫防の方法も亦随て完全確實なるを得ざるべしと雖も現に其流傳の劇しきを見ながら之を捨置く道理も亦ある可らざれば凡そ我々今日の人智にてなし得る丈けの人事を盡し金錢と勞力とを惜むことなく以てその豫防に從事するは當然の事なるべし
今日一般に行わるゝ説に據ればコレラ病傳播の原因は飮食物の善惡、土地家屋の潔不潔、交通〓接の多少等にありとするものゝ如し乃ち下等社會の不良の飮食をなし不潔の家に住み往來交通を謹しむ能わざる輩にコレラ患者の多くして之に反する上流の社會に少なきも其一證として見るばしと云うされば豫防の方法は人々此等の諸事に注意するに在ること勿論なれども清潔なる飮水を全市に供給し下水を疏通して土地空氣を清〓になし家屋の制限を設けて貧民を中央市區の外に駆逐し以て不潔の跡を絶ち病毒傳播の機會を少なくするなどの事は所謂公共の衛生法にしてコレラ病豫防の爲めには最も肝要なる點なりと云うべし
然るに今日東京市街の有様を觀るに飮用水の供給、下水の疏通等の不完全なるは申す迄もなく家屋の制限法なきを以て貧富雑居の有樣にて不潔なる裏店貸長屋は到る處に軒を接し貧民の巣穴中に紳士富豪の門を張り大〓高〓の〓に餓鬼の群を成すその外觀の不体裁なるは無論、コレラ流行の際に當りては恰も傳播の媒介物を東京市中に撒布したるも同樣にて其間に居を占むる人々はさながら四面に敵を引受けたると同じく實に不安心の事にしてこの有樣の長く續かん限りは豫防法も到底十分の〓を見ること能わざるべし本年の如きも衛生委員の處置は如何に周到なりしにもせし又府民が之が爲め費やしたる金錢は如何に巨額なりしにもせよ實際豫防の功能は案外に少なかりし事ならん抑も東京には皇居を始めとして貴〓紳士等歴々の人々の何れもその第宅を占むる事なるに斯く年々コレラ病の流行ありては昆山の一火、玉石共に其災を免じ難く〓に本年も一時病勢の盛なりし頃には恐れ多くも聖〓御遷幸の事を議する者さえありたる程の次第にて上下共に其堵に安んぜざる者と申すべしされば今後東京をしてコレラの來襲を免れしめ上下共に其心に安んぜんとするには前に述べたる如く清潔なる飮水を供給し下水の方法を改良し貧民の巣穴たる裏店貸長屋を中央市區外に移して市内に不潔の源を絶ち以て嚴密に豫防法を施行する一手段あるのみ即ち我輩の宿説たる東京市區改正の事を實行する外ある可らざるなり盖し東京市街の有樣にして今日の觀を存する限りは衛生豫防の方法は如何樣にその手を盡すも此帝都をしてコレラの襲撃を免れしむるは到底望む可らざることなれ共左ればとく襲撃せらむれば及ばずながらも防禦の備を爲し〓に本年の防禦費も前記の如く地方税の支出に係る分のみにて三十萬圓内外これに他の間接の損失を合算するときは數百萬の上に出る事ならんなれば今後毎年もしくは三四年目毎に一回の流行に遭うときは東京市民が之が爲めに消費すべき金額は終に幾千萬に至るやを知るべからず費用の一點より言うも早く市區改正を斷行して安心の地位に立つこそ智者の事なるべし日本帝國の首府たる地位より見るも又一國商賣の中心たる塲所柄より見るも市區の改正は一日も猶豫すべきに非ずその方法順序の如きは我輩の〓に幾回か論及したる所にして當局者に於ても〓に成算のある事ならん我輩は本年惡疫の府下に流行したるに遇い益々改正の必要あるを威じ其事の一日も猶豫すべからざる次第を衛生の一方より聊か一言するのみ