「相塲の陋風は一掃す可し商賣社會の安寧は重んぜざる可らず」
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本文
相塲の陋風は一掃す可し商賣社會の安寧は重んぜざる可らず
字
人間世界の治亂とは唯兵馬戰爭の有無を云ふのみにあらず治世の人事に治まるもあり又亂
るゝもあり例へば内乱に治亂あり外交に治亂あり學問教育に治亂あり宗旨道徳に治亂あり
一般の商賣に治亂あり人々の家道に治亂あり然り而して一國の政府たる者は時として或は
大波瀾を起すことなきに非ずと雖ども其波瀾は治を求る爲めの運動にして結局政府の目的
は社會の治を助成して亂を防ぐに在りと云て可ならん即ち社會の秩序安寧を重んずるとは
此事なり左ればにや我日本政府に於ても此邊の注意は頗る周密丁寧にして兵亂の豫防は勿
論、内治に外交に安寧一偏の主義にして内國の人民を視ること火の如く常に其燃るなから
んを欲し外國の人を待つこと水の如く常に其汎濫せざらんことを祈り法律の正明確實なる
のみならず臨時の智略政策も至り盡さゞる所のものなきが如し彼の警察法の如きは直に人
民に接して社會の秩序を維持し人々の身体財産を保護するの本分にして之が爲に國財を費
すことも少なからず隨て其法の能く行屆きたるは殆んど諸外國にも此類稀なるほどの有樣
にして此點より視れば我輩も日本國人として竊に誇る所なり
以上は今日我政府の針路にして其秩序安寧を重んずるに頴敏なるは疑ふ可きにあらず些細
なる事件に至るまでも間接に直接に其變亂を豫防せんとするの注意は若々事跡に就て見る
可きもの甚だ多し然るに近来東京の商賣社會に圖らざる大變亂を生じたるこそ不幸なれ此
變亂は過日我時事新報にも大略を記したる如く(十月二十三日二十五日時事新報)今度東
京に共同相塲會所なるものゝ新設ある可しとの風聞天外より吹來りて始めて端を發きしも
のにして舊相塲所(株式取引所並に米商會所)の株主等は之に狼狽して自家の廢滅を恐れ
俄に所有の株式を賣出さんとすれば其價格を落し又狼狽して之を買戻せば又高値に上り其
際には百方より樣々の軍士の現はれ出でゝ商略の秘術を振ふも亦相塲所の常にして一勝一
敗禍福瞬間に變化し、哀しむ者あり喜ぶ者あり泣く者あり笑ふ者あり甚だしきは妻子を捨
てゝ欠落する者もあらん發狂して斃るゝ者もあらん凡ろこの二週日以來相塲所の天地は殆
んど頓覆の有樣にして日の勝負は何十萬圓の巨額に達し幾十百人の間に容易ならざる禍福
を與奪して詰る處今日までの成跡を見れば十數日前に株式取引所と米商會所との株式合し
て三千株その價格の合計凡そ百二三十萬圓なりしものが昨今の處にては凡ろ八九十萬圓に
減少し其減少する間に幾回か人の手に出入して一出一入毎に其主人を泣かしめ又笑はしめ
今後も亦同樣にして際限もなく商人社會を惱殺することならん實に以て近年稀有の大變亂
なりと雖ども其原因を尋れば明々白々にして唯共同相塲會所設立の風聞に吹倒されたるも
のより外ならず風聞も亦恐る可きものと云ふ可し抑も從前の相塲所は其政府に對する關係
も餘り錯雜に過ぎて官民双方の爲めに便利ならず所の内部は素町人の巣窟にして商賣上の
氣義に乏しく時としては醜に堪へざるほどの弊害も見ゆることもあるよし速に之を一掃し
て正に反らしめんとするは固より我輩の宿諭なれば共同相塲會所の新設も甚だ妙なり其新
會所がいよいよ君子の會所にして反正の目的を達することならば一も二もなく之を賛成す
可きなれども我輩が從前の相塲所を一掃せんと發言したるは唯その所の陋風弊害を除き去
るの意味にして其弊害と共に其資産をも一掃し去らんと言ふに非ず相塲所の規則完全なら
ず、此に出入する商人等の人物宜しからずと云も是れは規則と人物との罪にして株主の株
式には罪ある可らず人に罪あるも錢に罪なし然るに今其規則を非とし其人を惡むが爲めに
併せて其資産をも無に歸せしめんとするが如きは社會の秩序安寧を重んずる長者の爲めに
謀て取らざる所なり盖し社會の秩序安寧とは唯政治上のみに在らず商賣上の安寧も政事に
比して輕重あらざればなり明治十六年の統計表を見るに一箇年間全國にて人に盗まれたる
金高七十一萬六千餘圓とあり之を三百六十日に割れば全國一日の盗難二千圓に過ぎず或は
全國博奕の勝敗を統計しても其金高は一日に平均して僅々たる者ならん今盗賊博徒の心術
如何を問はずして單に其金圓の得失のみを見れば盗難博奕に由て謂れなく人に金を取られ
又謂れなく人の金を取る其趣は相塲所の株式が漫に騰貴して其株主等が漫に金を得失する
ものに異ならず相塲乱高下の禍も亦大なりと云ふ可し然るに全國の警察は此盗難と博奕と
を豫防せんとて非常に盡力する其の最中に目下東京の中央には世上の風聞を聞いて日に幾
萬圓の得失する者あり實に法外千萬なる次第なれども世間に之を怪しむ者さへなきは我輩
の遺憾とする所なり固より相塲所の事は常に風聞に由りて動搖する者にて或は朝鮮の事件
と聞き或は支那の云々と傳へ一報の電信以て大勝負を決するが如き毎度動搖の事例あるも
是れは人力を以て左右す可らざる風聞なれば人々の覺悟に任ずるの外なしと雖ども今度相
塲所の動搖は其原因たる風聞の性質分明なるが故に苟も政府の筋に於て商賣社會の秩序安
寧を重んずるの深意あらば一度び其風聞の源を斷て鎮静の處分あらんこと我輩は深く冀望
する所なり次に鄙見を記して數を乞はんとす