「相塲所の改革は機密を要す」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「相塲所の改革は機密を要す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

相塲所の改革は機密を要す

相塲所の動搖を鎭靜するが爲め一度び其原因たる風聞の根本を斷つ可しとの大意は前號の

紙上に之を記したり抑も今度の動搖は共同相塲會所の設立あらんとの風聞早くも民間に傳

播し且その設立案も單に民間の作に非ず政府の筋に於て既に議を决して二三四五の商人は

其諮問に預りしなど樣々の言を洩れ聞きして其言の尾に尾を附け殆んど世に隱れもなき大

評判と爲りて遂に人氣を擾〓したることなり竊に案ずるに政府が今回相塲所の改革を議し

たるや否やの信僞は我輩の固より知らざる所なれども從前の相塲所の不完全にして改革を

要するの事實と政府が常に社會の進歩を悦ぶの熱心とに訴へて之を考ふれば此改革議の起

りしは或は相違もなきことならんと信ぜざるを得ず我輩の甚だ賛成する所にして一日も速

に着手を冀望すと雖ども唯遺憾なるは其風聞の早くも民間に流傳したるが爲めに今回は如

何にしても直に實施す可らざるの一事なり其次第を述んに今政府より株式取引所並に米商

會所に向て直に其營業を止る歟又は今後營業の繼續は叶ふ可らずと申渡す時は両所株式の

價は地に落ちて株主等の損害は非常なる可ければ商賣社會の安寧を重んずる政府に於て固

より行ふ可き事柄に非ず左れば政府は至公至平今度新設す可き共同相塲會所をして時の價

格を以て両所の株式を買取り舊相塲所の跡を絶て新相塲所を起さしむるの方案に從はん歟、

甚だ公平なるに似たれども彼株式なるものは日々の賣買に浮沈するが故に確に時の價格を

定むること難きのみならず新相塲所は舊相塲所の株を時價を以て買潰すとの風聞、例の如

く世間に傳播するに於ては株主等は忽ち得意の顔色を聞き只管その時價を騰貴せしむるの

工風を運らして迚も相談の居合はざる事ならん然らば則ち舊相塲所の株式は曩を以て之を

破壞す可らず又好意を以て其株主の言ふがまゝに買潰す可らず其處分甚だ難きに似たれど

も凡ろ政事の機密は此邊に働を爲す可き者にして疾言耳を掩ふに暇あらず政府の當局者一

個人の〓斷を以て瞬間に事を决す可きのみ例へば當局者は從來の相塲所の有樣を見て果し

て新相塲所の設立を必要なりとする歟、獨り之を方寸に决し即時に株式取引所と米商會所

とに命じて其株式の賣買を禁じ其日の相塲を以て株の價格と爲し然る後に新相塲所の設立

に關して評議も可なり諮問も可なり徐々に謀を爲して其株を買取れば賣者買者共に價の事

に就くは一點の不平ある可らず是則ち政機の貴き所以にして其効用の著しき者なり事の大

小輕重と其性質は異なれども爰に一例を示さんに千八百七十五年英國の大宰相ヂスラリー

公がスイス運河の株式を買取りたるが如きは政治機密の龜鑑とも云ふ可きものなり當時運

河營業の惣株數四十萬株にして其内十一萬七千株は埃及政府の所有に屬し同政府財政の困

難よりして此株式を賣却するに内决したる趣在埃及英國領事の耳に聞へければ領事は即刻

晴號電信を以て本國宰相へ報じたるに宰相は廿四時間に决答を與へ二千萬圓を以て右の十

一萬七千株を英政府に買取りたり盖し英政府の慣行に依れば斯る大事件は必ず國會の議に

附す可き筈なれども其事なきのみか宰相は他の内閣員にも語らず天地の間唯一身の方寸に

之を斷行したりとは流石に大英宰相の名に愧ぢざるものと云ふ可し若しも此時に當り宰相

が領事の電信に接し之を人に諮問し又相談するが如き緩慢手段に出たることもあらんには

政機瞬間に千里を走て歐洲の政事上商賣上に大變動を起し事は未だ成らずして先づ害毒を

社會に流し内外の嘲を取りしことならんのみ左れば前にも云へる如く日本の相塲所の事と

スイス運河の事とは其輕重固より比較にもならざる次第なれども政機の大切なるに至ては

輕重の別ある可きに非ざれば我輩が日本國民の分として政府の當局者に對しヂスラリー公

の機密果斷を望むも敢て分外には非ざる可し然るに不幸にして今度共同相塲會所新設の一

條は舊相塲所の株式に就き未だ何等の處分をも施さゞる其前に浮世の浮説は千差萬別隨て

出でて隨て人を驚かし今日に至りては何れか實説にして何れか虚なるや虚實も分けぬ暗黒

の中に投機商の狂奔する有樣にして新設の事は進むにも難く退くにも易からず進退共に唯

商賣上の安寧に不利なる可きのみなれば兼て我輩も同感同説なる相塲所の改革を一時に施

行せば甚だ殘念なるに似たれども今の塲合に當りては止むを得ず一段落を切上げて鎭靜の

方略を施すの外に好手段なきことならん斯くて一と先づ商人等の安心を固くして其平生に

歸らしめ共同相塲會所新設など云はずして別に新案を立る歟又は幾年幾月の後に至りて商

賣社會の人氣を視察しいよいよ新設の要を見定めて圓滑に行はる可き機會を得たらば其機

を空ふせずして斷して行ひ所の廢立を瞬間に决するが如きも政機の華實を全ふするものと

云ふ可し都て大小の人事を處するに成敗は其出發の機に在るを常とす若しも其發機の不充

分なるを見たらば暫時を忍耐して再發を試みるに若くはなし俗に所謂氣をぬくものにして

經世家の竊かに重んずる所のものなれば我輩も今度の一條に付ては氣をぬかんことを欲す

るものなり