「英船ノルマントン號の沈沒」
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時事新報に掲載された「英船ノルマントン號の沈沒」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
英船ノルマントン號の沈沒
英國汽船ノルマントン(Normanton)號が去月二十一日の夜横濱より神戸に向け航行の途
中、紀州沖にて暗礁に乗上げ船体非常の損傷を受けて沈沒し船客の日本人二十三名残らず
と乗組員の中十三名は溺死し船長以下廿六名の者丈は端舟に取乗り危難を免れたる事の次
第は前日の時事新報に記したる通りにて讀者の既に知らるゝ處ならんが右の報道は當時の
危難を免かれて神戸に來りたる該船員の實話なりとて兵庫ニュースに記載したる者にて其
説に據れば日本人二十三名の溺死は全く船員外國人と船客日本人と言語不通にして危急を
報道するの便を得ること能はざりしに起因し殊に日本人の無智無神經なる斯る塲合に臨み
ながら危險の何物たるを解せず船長以下が必死となりて救助に盡力したるにも拘らず今に
も沈沒せんとする難破船の甲板に取縋りて只管、端舟に乘移ることを拒みたりといへり左
りとては餘りに不審なる話にして未だ以て我輩日本人等を滿足せしむるに足らず依て我輩
は此容易ならざる出來事に關する正確なる事實の探索に種々從事中なれども今日までは未
だ是れといふべき程の手掛りを得ず盖し乘組の日本人廿三名は一人も殘らず溺死したるが
ゆゑに我輩同胞に此凶事の始末を報ずるの口なく永遠遂に手掛りを得ずして止むが如き遺
憾あらんことを掛念するに足るの理由なきにあらざるなり
抑も右のノルマントンと號する英國汽船は噸數一千五百三十三噸船將をドレーク(Drake)
と呼び支那日本邊を航海する者の由にて我内海を航行するは今回にて僅に三度目なるに水
先人をも雇ひ入れず大膽にも不知案内なる日本海の難所に進航し闇夜風雨に遇ふて忽ち其
針路を誤りかゝる危難に嬰りたるなりといふ、そは兎も角も難破の當時如何に危急の塲合
なりしとは云へ船長以下廿六名の者は一命を助かりたる程なるに二十三名の日本人は一人
も殘らず溺死したりとは甚だ以て不審に堪へざる事なり兵庫ニュースの所記に從へば當夜
本船には端舟の用意もありて救助の手段は充分整ひ居りしも何分言語の不通なると日本人
が無智にして危難の恐るべきを知らず船員等は種々に手を盡して救助なさんと試みたるも
頑然動かず自ら求めて死地に陥りたるなり云々といへり成程斯る危急の際に當りて互ひに
言語の不通は幾分か其危難を加へたるに相違あるまじと雖も日本人が無智にして救助を拒
みたりとの一點は甚だ疑ふべき事なり如何に無智無神經の人なればとて今にも沈まんとす
る難破船の甲板上に身を托するは危ふき事は假令人の言を耳にせざるも目これを見て自ら
心に理解すべし殊に船の岩礁に觸れたる時より船長以下が本船を立去りたる迄の時間は殆
んど一時半もありたりといへば其間には十分救助の手段を盡すの暇あるべき筈なるに二十
三名の日本人中一人の端舟に乘移りたるものさへもなく態と難破船の甲板上に居殘りて船
と共に沈没したりとは如何に考ふるも人間世界の道理に適はざる話にして我輩の容易に信
ずること能はざる所なり否寧ろ甚だ疑惑する所なり抑も船長の船に在て其權力責任の重大
なるは世間これに譬ふるに物なし全船の重きを擧げて我一身に任じ之を辭すること能はず
恣に針路を左右し恣に積荷を海に投ずる等も其期する所は唯船体の安全を保ち人命を損せ
ざるにあり偶ま救ふべからざるの災難に遭遇し我指揮する船の難破する塲合に當ては船長
の責を卸すの第一に船中の旅客を救ひ第二に乘組の水火夫等を救ひ第三に船長自から助命
の工風を求むる事にして船の危難を見て船長先づ船を去るが如きは法律上徳義上共に决し
て許さざる所なり然るに今ノルマントン號の船長ドレーク氏の所業の如き果して船長たる
の責任を盡したる者なるや如何甚だ不審なり世人或は曰く難破船の塲合に於て最後に船を
去るべき者は船長なると世界の通法にしてこれを知らざる者なく又實際に於てもよく此法
の行はれて偶ま此法を守らざりし船長あれば爾後再び社會に齒すること能はず永劫人間の
外に埋死するの例なれども此例は以て西洋人の日本の事を處するの準則と爲らしむる能は
ず彼等皆謂へらく西洋の教義法律は東洋に適用すべきものにあらず東洋人は一種の下等人
類たるのみこれに對して禮を失し情を失ひ危難の塲合に臨みて見殺しにしたりとて人間の
道に違ふの所爲と云ふべからず猫を殺し犬を溺らすが如き類の所業は人道を以て繩墨する
の限りにあらざるなりと彼等の常に心に信ずる所既に斯の如し故に一旦事に當りて其行爲
の非常案外なるは决して恠しむに足らざるなり殊に外國船の日本沿海に旅客を運送するも
のは船客として日本人を乘載するにあらずして一種生類の貨物なりと心得て船艙に積み入
るゝのみ故に其運賃も廉く取扱も乱暴無情にして船長の眼中船内に旅客あるを認むること
なし偶ま風雨等の變あれば生類の貨物の住居する艙口を外より固封して其出入喧噪船員の
妨げを爲すを禁じ結局船の沈沒する時に至るも艙口の封を開きて貨物の生命を助くること
を思はず悠々自から端舟に移り浮袋を肩にして遠く漕ぎ去るのみ盖し今回ノルマントン號
難破の如きも亦此一例たるに過ぎざるものならんと我輩は未だ必ずしも或人の説に同意す
るにあらず亦必ずしも早く今日に當りてノルマントン號船長の罪を斷言するにもあらずと
いへども兎に角に難破事件に關しては我輩十分に不審の念を懷き亦十分に胸中不快の感覺
あるを覺るなり尚ほ此難破事件に關しては目下神戸の英國領事舘に於て船長ドレーク氏以
下を呼出して吟味中なれば或は此裁判の我々日本人の疑を解くに足り廿三人の〓魂を鮫宮
に追慰するの機會を與ふる事もあらんかと竊かに大に屬望するのみ