「今の新聞紙條例」
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時事新報に掲載された「今の新聞紙條例」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
今の新聞紙條例
明治十六年四月我政府にて新聞紙條例を改正して以來今日に至るまで足掛け四年、久しか
らざるに非ず、世間の事情も亦自から變更なきを得ず盖し當時我政府が此條例を改正した
る折は明治十四年政治界の變動にて平地に風波を漲らしたる其餘勢、世上の人氣も自から
湧き立ち新聞紙面にも知らず識らず無遠慮なる文字の現出することなる等の事情にて其筋
にても新聞紙條例を嚴密にするの必要を感じたるならんかなれども今や時勢一變し社會の
人事總じて歐米文明の風に向ふのみならず追ては内地雜居を許るすの沙汰もありて世事ま
すます繁多なるを加へ新聞紙上の論説記事も亦自から繁多なるの盛運に會したれば法例は
時世と共に變すべしとの格言に由りて今の新聞紙條例にも多少の變更ありては如何にやと
の世説もありて徃々我輩の耳にする所なり而して其説の當否は我輩新聞事業當局者の敢て
自から判定を下すべき限りにあらざるがゆえに我輩はこれに〓して兎角の説を爲すことを
好まざれども世人にして果して今の新聞紙條例を研究するの意あらんには其局に當り其責
を負ふて多年此條例の下に立ちたる我々新聞記者の言も或は其參考の一助たるを得んかと
信ずるが故に我輩は好意を以て此條例を觀察し敢て聊か我輩實驗上の所見を陳述すべし
今の新聞紙條例は通じて四十二條より成立つものなれば一々これを記さんは其煩に堪えず
又其要もなかるべし今其中に就き重もなるものを擧ぐれば其第十四條及び十五條に新聞紙
に記載したる事項の治安を妨害し又は風俗を壞乱する者と認むるときは其發行を禁止若く
は停止するは内務大臣又は府縣知事の職權内に在るものと爲しありて他の犯罪の如く検察
官より裁判所へ訴出でて罪の有無を斷するの例にあらず事を處するに敏捷活溌なからんと
するには此便宜法を要すること無論ならんといへども尋常の例の如く裁判官を煩はすも亦
甚だ便利の法ならんか又其第十七條に一人又は一社にして數個の新聞紙を溌行する者一個
の新聞紙を停止せられたるときは其停止中他の新聞紙を發行することを得ずとあり此條の
精神は身代りの新聞紙を用意して停止の罪に觸るゝことを防ぐに在るならんかなれども此
條の在る有るが爲めに身代りならざる無辜の新聞紙までも他の犯罪に同座せしめざるを得
ざるの不便なきにあらず又其第二十七條に新聞紙に記載したる事項に付官署より其出所の
訊問を受けたるときは之を證明す可し違ふ者は編輯人十圓以上百圓以下の罸金に處すとあ
り我輩窃かに案ずるに立法者が特に此箇條を設けたるは新聞探訪者が官邊の事情或は機密
に渉るものを聞き込んで之を新聞紙に記載することある其折に原稿の出所を訊問して其事
の何人の口より洩れたるかを追蹤し以て後來を戒しむるの微意にてもあらんかなれども極
内々に新聞記者の心事を問へば官署の訊問に逢ふて明々白々原稿の出所を證明すれば原稿
寄送者の好意に報ずるに迷惑を以てするが如き姿に立至り私心窃かに氣の毒なるの情實な
きを得ず人間の徳義上に於て甚だ難んずる所ならん將た又無名氏或は變名者の投与に係る
ものは現在確報にして然かも官邊の不都合と爲らざるのみならず或は其好都合ならんと知
りつゝも他日官署の訊問に對して原稿出所を證明する能はざるの掛念にて之を〓〓するを
得ず特に我日本人は氣輕く其姓名を公示するの風なきが故に原稿出所の不分明なるもの多
く一々其箇所の訊問に應ぜんとすれば可惜新聞を聞て之を聞き流すの塲合少ながらず或は
出所分明なるものにても全國の各官署より日に月に幾回となく訊問せらるゝときは其都度
故紙堆中より數日前の原稿を調べ出し之を原稿者に問合せて官署に徃復返答する等新聞劇
務の際其混雜一方らなず斯くて記者の不便利を感ずる其代りに官署の方にては立法者が該
條を設けたる精神を貫徹するやと云ふに之を實驗上に照らして豫期に背くの塲合或は少な
からざることならん又其第三十一條に式に依りて宣布せざる公文及び上書建白書請願書は
當該官司の許可を得るに非ざれば之を記載することを得ず云々とあり盖し式に依りて宣布
せざる公文上書建白書請願書抔の中には新聞紙上に掲載して不都合の向もあるべければ當
該宮司の許可を得て之を掲載すべしとあるは誠に至當の事なれども元來新聞紙なるものは
世の耳目たるに背かず報道の速きを貴ぶが故に事の治安に害なしと認むるものは之を掲載
せんとして一時一刻を爭ふの塲合なきに非ず然るに今當該宮司の許可を得んとすれば爲め
に時日を費して事の舊聞に屬するのみならず當該官司は大丈夫を蹈んで兎角掲載を肯んざ
ざるの意味なきにしもあらざるべければ遂には舊聞の報道すら爲し能はざる塲合もあらん
因て思ふに新聞紙條例中には治安を妨害し風俗を壞乱する事項、政體を變壞し朝憲を紊乱
せんとするの論説、其他顯はに刑律に觸れたる罪犯を曲庇する言論等を巖罰するの箇條も
あれば危激の建白書等其主意の前項に觸るゝの恐れあるものは當該宮司に伺ふまでもなく
固より之を掲載す可からずと雖ども苟くも此等の事項外にして公示を憚らざる性質のもの
は其大意なり草案なり當該官司に伺はずして隨時之を掲載することを得る事とも爲したら
ば一層の便利ならん試に諸外國の新聞紙を見るに其筋の何々委員の草案と云ひ商法會議所
其他一會社一個人の建議と云ひ朝々暮々時を移さずして之を掲載し敢て頓着せざるものゝ
如し又其第三十八條に成法を誹毀して國民法に遵ふの義を乱る者云々とありて從來新聞記
者の罪を得るは多くは此成法誹毀に在るやうなれども成法と云へば意義甚だ廣濶にして其
筋の諸規則諸條例を含蓄し新聞紙上の記事論説は毎々之らに關係するが故に所謂誹毀なる
文字の解釋次第、記者の困難は申す迄もなく爲めに新聞紙の新聞紙たる効用を失ふの恐な
きにしもあらざるが如し
右は今の新聞紙條例に就き我輩が四年以來實驗の上便否如何と思はるゝ箇條中の重立たる
ものを陳述し献芹の微誠聊か世人の該條例研究上の參考に供せんとするに過ぎず過日も官
邊の某氏と談話の序に前陳の參考説を述べたるに某氏首肯して如何樣左る事情もあらん左
りながら凡そ條例と云ふものは之を譬へば橋梁の如し橋梁を架するには豫め洪水の備を爲
し一旦の風雨水勢急激なる其時にも其暴力に應ずるやうの覺悟なかる可らず今の新聞紙條
例は一時政治上の洪水あるに當り必要を感じて架け換へたるものなれば今や水嵩大に減じ
て中流時に平沙を露はす程なりといふとも何時何樣の風雨ありて又々洪水を生ずることな
しとも云ふ可らず水淺ければとて橋の高きを患へず言論纔かなればとて條例の嚴なるを患
ふるに及ばず云々と我輩之に答へて洪水の其時には平時不便の方法そも執行せざる可から
ずといへども平常渡川の客に向て洪水川止の規則を當てはむることあらば旅客の迷惑至極
ならん凡そ事には臨時の處分なるものありコレラ病規則は流行地内の人にのみ施す可し軍
法は戰地内の人民にのみ行ふ可し若し果して今の新聞紙條例を洪水暴談の用に供したるも
のなりと云はれんには爾来四年日本社會の風潮も漸く其方向を改め川の流域も大に變ずる
所ある今日尚ほ當年霖雨洪水の時の規則を以て社會の最も頴敏なる部分を支配せんとする
は臨時の處分を平時に施行するの嫌ひなきや如何と述べたるに某氏も亦遂に同意を表した
り是れは互ひに少しく極端の比喩にして直ちに取て今の新聞紙條例に適用すべきものにあ
らずと雖ども今や時勢漸く變じ追て内地雜居の都合にも爲らば外國人が内地に入りて日本
字新聞紙を發兌する等の事もあらん其筋の人々には固より此邊の深慮あることならんと雖
ども我輩は我輩の經驗したる處丈けを陳述して聊か世人が參考の一助に供せんとするのみ