「東京百萬の府民に運動を勸告す 小林梅四郎稿」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「東京百萬の府民に運動を勸告す 小林梅四郎稿」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

東京百萬の府民に運動を勸告す 小林梅四郎稿

一日に三度の食事が命を繋ぐに必要なる如く日々適度の運動も亦身体を保つに必要なりと

は生理學の初歩にも説ける所なれば人に向つて此運動の事を勸むるは恰かも渇しなば飮む

べし飢へなば喰ふ可しと謂ふと同じく明白至極の事柄にてこれを事々しく云ふは如何のも

のと思はるれど今月今日東京府民に對しては大に然らざる状况あるを覺ゆるなり全体日本

人は一般に運動を大切視せざる中にも東京府民程甚しき者はなく其男子たる者二六時中室

内に兀坐して職業に從ふ者多く或は外出の要ある者も車に乗りて出入し身体を動し勞する

事なく歩行とては雜用に促されて唯一日幾回か狹き室内を往來するに過ぎず况してや女子

たる者は深く屋後に閉居して終日日光をさへ見る事も稀れに小兒を相手に爐の見張りを常

職となす抔一年三百六十五日男女とも戸外へ出づるは只一箇月に一二度縁日の夜見世に逍

〓するのみ、不養生の極點言語同斷沙汰の限りと申すべし左ればこそ骨は飽く迄細くして

肉極めて少なく顏色青白くして殆んど生物とは思はれず、一日已むを得ざる事情ありて繁

劇の間に投ずれば三日は頭を擧げ得ざるの主人、一夕隣家の茶席に招かれて早や胃腸を損

し醫士の來診を煩はすの細君、滔々として總て皆是れなり或る西洋人は東京府民と評して

男子は影法師の如く女子は幽靈に似たりと謂へりとか成程彼等の目より評しなば左のみ苛

酷とも思はれざるべし

總て人間の働きは智識上身体上ともに一身の健康より生ずるものなれば尋常の時勢にても

身体の健康は最大緊要の事なるに殊に今や條約改正して内地雜居は明日か明後日かの境に

ありて其曉には日本商工百般の事業復た今日の如く安閑遲鈍の有樣にある可きにあらず萬

國の人と文明世界優勝劣敗の土俵の上に立ち合はざる可らざる非常の時勢に差し迫りて東

京府民は第一に其衡に當る可きものなるに斯る淺ましき有樣にては智識上は謂ふにや及ぶ

單に身体上にても彼外人と其鋒先を爭ふ克はざるは鏡に掛けて見るが如しいと心細きの限

りならずや且夫れ身体の事は啻に今月今日の人に取りて大切なるのみならず後世子孫に大

關係を保ち後世子孫の栄枯〓喪殆んど全く當代人の健不健にありて存するものたるは理の

最も明かなる所なり左れば東京府民が今日の如き不養生千萬の風習を改め少なくとも一日

に三四度の運動は公園にまれ市中にまれ必ず之れを實行するの有樣に至らざれば啻に影法

師、幽靈の評を免かるゝ〓はざるのみにあらず當代の影法師、幽靈は第二世の影法師、幽

靈を生み三世四世順次に其度を進めて遂には東京百萬の大都も昔し話の所謂化物屋敷の中

心となり物の用に立つ者とては無きに至らん實に恐ろしき事共なり

近頃食物改良論大に實際に行はれ從來の菜食顏色なくして肉食新たに面目を開き紳士紳商

の集會は勿論鯨飮泥醉して盃盤狼藉の間に高歌放吟、起舞拳戰の愉快は日本料理に限るな

ど信じ切たる少年の集會を始め商工社會全般の飮食も次第に洋風に傾き現に東京府下にて

消費する肉類斤量統計の表に於て其實行の著しき進歩を認むるは賀すべきの至りなりと雖

も余輩は之れを賀すると同時に又心中竊に心配する所なきにあらず即ち前陳の如く未だ運

動を重んずるの風習行はれざればなり元來東京府民の如き者の身体を健強にせんとする上

より考ふる時は食物を改良するは積極の事にして運動の風習を養成するは消極の事に屬す

れば事の順序より先消極の運動を十分に行ひ然る後積極の食物改良に着手せざれば徒らに

金錢を費やし力を勞して事實其効能は皆無に屬するを免れざる者ならん一日に精肉一斤鶏

卵十箇牛乳三合パン一斤を飮食する紳士を見れば其筋骨脆弱にし顔色蒼々宛然として喪家

の狗の如くなるに一膳飯に澤庵を添へ番茶を掛けて街頭に立食する車夫が骨格逞ましくし

て皮肉に光澤を帶び恰も千里の駒の如きは何故ぞ即ち彼れは積極の事に走りて消極の事を

忘れ此れは專ら消極の事を勤めたるの結果にして積極に屬する食物改良は如何に其進歩著

しきも消極に屬する運動不完全にては身体の健強得て望むべきものに非ずとの眼前の實例

を示すものなり且夫れ消極の運動を棄てゝ積極の食物改良に走るは經濟上不利にして其効

能なき其上に却て身体を損傷するの恐れも亦甚だし或人の言に世間餓死する者は少なくし

て飽死する者多しと盖し人間の弱點として兎角胃腸の力量を計らずして其度を過ごし勝ち

なるに菜食に比して肉食は實際口にも美なるよりして一喫其芳味を忘る可らず菜食は身体

に宜しからず食物は肉食に限る抔と興に乘じて其度を過し食物を消化せずして恰も之を腐

敗せしめ、爲めに種々の病を引き起すの例は醫家の經驗に於て珍らしからぬ事にして或

人の一言は此邊の害惡を論破したるものならん

斯く謂へば迚余輩は食物改良を不必要と謂ふにあらず身体を健強にせんには食物の改良と

運動の習慣とは東京府民に取りて車の兩輪飛鳥の双翼並存して偏廢すべからざるものなれ

ば可成滋養多き肉食に改む可きは勿論なれども單に食物をのみ改良し身体の健強を謀るに

至れり盡せりとして得々たるは一方に得て一方に失ひ差引費用と勞力との損毛を蒙るもの

なれば先づ消極の運動を十分にして積極の食物改良を水泡に屬せしめざるの工風を勸告す

るものなり語を寄す東京百萬の府民は春夏秋冬四時の好時節を利して一箇月一二回の郊外

遠足は勿論、平日にても晴天には公園又は市中の散歩、雨天には室内に又軒下に瞬く程の

時間にても運動の事に利用して身自から影法師幽靈の地位を脱出し兼て又二世三世の影法

師、幽靈を造り出さゞる樣に心掛るは啻に一身の爲のみならず又天下後世の幸福の基なる

可し